住宅などの建築で,床板(ゆかいた)を張らず,地面がそのまま床になっている部屋の総称。土間という呼称が用いられだした時期はわからないが,1600年ころには,台所の土床の部分を土間と呼んでいる。庶民住宅では,奈良時代までは床を張らず,土の上に草や籾(もみ)を敷き,その上に筵(むしろ)を敷いて生活した。北陸地方から東北地方では,18世紀まで土床の住いが多くあり,〈土間ずまい〉とも呼ばれている。江戸時代の住宅では,台所に広い土間がとられ,竈(かまど)や流しを設け下働きの人々の作業場になっていた。庶民の住宅も同様で,居間に当たる部屋に隣りあって土間が設けられ,通路や作業場,物置,調理や炊飯などの家内作業の場として,多目的に使用されていた。庶民住宅の土間は通常〈にわ〉と呼ばれることが多い。19世紀の後半になると,作業場は別屋を設ける家が多くなり,調理や炊飯も床上に移行し,土間は入口や通路の役割だけを受け持つようになる。
執筆者:鈴木 充
舞台前面,東西の桟敷の間の広い場所を占める観客席。正徳(1711-16)ころからここを〈切落し(きりおとし)〉と称する追込みの大衆席として使用してきたが,1766年(明和3)7月江戸中村座で,切落しの一部に縄張りをし隣席との区分をするようになり,さらにマセという木材で区切った〈仕切枡〉に発展した。枡の広さは時代により違いがあるが,84年(天明4)の分検帳によれば4尺8寸(約1.45m)×5尺で,7人詰を原則とした。1802年(享和2)秋,中村座改築のおり,下桟敷の前に土間よりも一段高い〈高(たか)土間〉(二重土間)が作られ,これに対して従来の土間を〈平(ひら)土間〉〈平場(ひらば)〉と称し,高土間をより高級席として区別した。土間の料金は1772年(明和9)8月で1間金1分1朱(18匁5分5厘=1200文。中村座),74年(安永3)5月で10匁(中村座),1800年(寛政12)に25匁,03年(享和3)に25匁など,時代や季節によってさまざまである。また観劇方法としては1人飛びこみで入る場合,〈割土間(わりどま)〉(土間の枡席へ他から割り込む)でも見ることができ,この場合は土間の定値段を25匁として7人で割ると3.57匁,1人分は約1朱(3.55匁)で見物できた。72年(明治5)東京守田座では高土間の前に〈新高(しんたか)土間〉(略して新高)が作られた。〈高土間〉〈新高土間〉の新設は,大衆席の低料金(132文)を維持しようとする興行者側の苦心によるものであったが,結果は大衆席を縮小せざるを得ない傾向に追いこまれていった。京坂の劇場では,土間を〈上場(じようば)〉,高土間,新高土間をあわせて〈出孫(でまご)〉と称した。関東大震災を機に劇場が近代化されて椅子席となったため土間の名称はなくなった。
執筆者:小池 章太郎
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屋内において床を張らずに、地面のまま、または叩(たた)き土(つち)、漆喰(しっくい)塗りなどにしてあるところ。現代では、玉砂利敷き、石敷き、石張り、タイル張り、コンクリート打ちなどの場合もこの呼称を用いる。原始住居跡から推定できるように、住まいは、初めは一室の土間だけの小屋であった。それが、中世以降、上流の人たちの住居の形式が一般化され、炊事や作業に土間を、居室として板床(のちには畳を用いた部屋)をそれぞれ用いるようになった。この形式が今日でも民家にみられる。
また、初期の歌舞伎(かぶき)劇場では、舞台の正面席を土間とよんだ。左右の席が屋根付き板張りの桟敷(さじき)であったのに対し、正面席は露天の土間であった。江戸時代の後半になってから、劇場全体に屋根がかけられ、この正面席もようやく枡(ます)という方形の席を設けるようになった。その中央部分一面を平土間(ひらどま)、平土間より高く、桟敷より低い部分を高土間(たかどま)という。
[中村 仁]
日本の住宅形式が履き物を脱いで上がる関係で、土間は不可欠なものである。土間はニワとかウスニワ、ニヤなどともよばれ、さらに内庭、外庭と区別される。片側に部屋があり、ニワが表から裏まで通っている片側住居の場合は、とくにトオリとよぶこともある。土間を格子戸や衝立(ついたて)で裏表に分けた場合、前面のほうをウスニワとよぶ。唐臼(からうす)を装置するからで、藁(わら)仕事やときには、脱穀調製までそこを使うこともある。藁打ち石などが埋めてあるのも、そのためである。調製に使う場合は、箒(ほうき)で掃き清め、人の歩く所だけ踏み板を置く地方もある。そのほか農具置き場や厩(うまや)、籾(もみ)を貯蔵するセイロ(別名キッツ)、便所、風呂場(ふろば)なども土間に設けられる。
土間に似て土座(どざ)という名がある。これは主として寒い地方に多い。土間を30センチメートルほど掘り下げ、籾や藁をいっぱいに敷き詰めた構造で、土間以外の居室はもちろんのこと、寝間までこの方法にしたもので、板張り以前の床構造である。
[竹内芳太郎]
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…劇場や演能場,相撲小屋などで,大衆席である土間に対して一段高く床を張って造られた,上級の観客席をいう。その古い例は《古事記》や《日本書紀》に見られる〈仮庪(さずき)〉で,これは観覧席ではなく,神事の際の一段高く床を張った仮設の台,つまり舞台的な意味を持つものだった。…
…近世にはさらにこの亀腹もなくなり,地表面の高さに礎石をすえるのが一般的になる。基壇の上に礎石をすえる場合,飛鳥・奈良時代の寺院建築では土間床のため礎石が見えるので,上面を加工して平らにし,さらに柱の底面などに合わせた作り出しをしたが,後には床によって見えなくなるため自然石をそのまま用いた。塔の心礎は舎利容器を入れるため,特別に加工されたものが多い。…
…この主屋の平面は大嘗宮正殿の平面と共通する構成になっており,庶民の住居としても,かなり程度の高い住居をモデルにしたものと思われる。同じ庶民の住居でも《信貴山縁起絵巻》に描れた奈良の家は,板葺土壁塗の建物で,半分を土間,他の半分を床(ゆか)としている。土間の入口は扉,床の開口は突止戸(つきとめど)になっている。…
…日本の農家に納屋が普及したのは江戸時代の中期以降で,現存する建物もあまり古いものはない。江戸中期以前は,主屋の土間が納屋の役割を果たしていたと思われ,土間は床上の部分と同じ広さにとられる。江戸中期以後,土間の面積は縮小し,主屋面積の3分の1くらいになるが,その時期が農家に納屋が普及した時期に見合っているものと考えられる。…
…室町時代,天皇家,将軍家に直属して作庭,造園に携わり〈禁裏御庭者(庭者)〉〈仙洞御庭者〉〈公方御庭者〉といわれた河原者,江戸時代,将軍直属の密偵,隠密で,幕府の諸機関を通さず,後庭から出入りして直接将軍の命をうけた御庭番(おにわばん)のあり方も,こうした庭の特質と関係がある。 現在でも農作業を行う平らな場としての〈庭〉は,広く民俗語彙の中に残っており,脱穀,調整をする家の外の仕事場,家の中の土間を庭というが,なかには共同作業を行う組織そのものを意味している場合もある。このように,家の中および周囲にとりこまれてからも,庭は共同の広場の特質をまったく失ってはいないのである。…
…おおいのない土地・地面のこと。また家と家との間の狭い道,敷地内に設けられた狭い通路,のことであるが,山梨県南巨摩郡,愛知県北設楽郡,飛驒の民家では屋内の土間,北陸,北信,奥羽地方の民家では庭,京都では町屋内の庭園,東北・北陸地方では庭園,大阪府,和歌山県,香川県の民家では裏木戸門,関西地方で路地の奥にある裏長屋を意味する。いっぽう茶道では茶室(座敷)に至る通路が,庭園として整備されたのちも露地と呼ばれる。…
※「土間」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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