日本歴史地名大系 「下安曇村」の解説 下安曇村しもあずまむら 鳥取県:米子市下安曇村[現在地名]米子市下安曇青木(あおき)村の南、小松谷(こまつだに)川東岸にある。東は長者原(ちようじやはら)丘陵、西は小松谷川と法勝寺(ほつしようじ)川に挟まれた平野、南は上安曇村。「和名抄」会見(あいみ)郡安曇(あずみ)郷の遺称地。地名は古代北九州に本拠をもつ安曇族の来住に由来するともいわれ、また古代は北の宗像(むなかた)からさらに奥部の当地付近まで海が入込んでいたとの伝承もある(尚徳村史)。近世初頭までに上・下に分村したとみられる。元和四年(一六一八)の検地では家数は吉右衛門以下一〇軒、田地一五町余(同書)。拝領高二三六石余、正保国絵図には下阿妻(しもあづま)村とみえる。本免は三ツ四分。米子組士柘植氏・柴山氏の給地があった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二六二石余、竈数二六。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by