下山田炭鉱(読み)しもやまだたんこう

日本歴史地名大系 「下山田炭鉱」の解説

下山田炭鉱
しもやまだたんこう

現在の山田市下山田・嘉穂かほ嘉穂牛隈うしくまにあった炭鉱。現在は閉山。発熱量は六八〇〇―七二〇〇カロリー、主として船舶焚料および工場汽缶に用いられた。最寄駅は筑豊本線下山田駅、同駅から古河石炭鉱業の手を経て京浜・阪神・中国・四国・名古屋・九州の各地方に運ばれ消費された。

当鉱の創始は不詳であるが、宝暦年間(一七五一―六四)に発見されたという。明治一九年(一八八六)当鉱付近を含む筑豊地方一帯が海軍予備炭田に編入されたが、同二三年に開放され、当鉱付近では熊田くまだ村下山田字山田で玄洋社の頭山満に採掘の許可が下り、下山田炭鉱とした。同二七年に名義は頭山から古河市兵衛に変更となり、勝野かつの炭鉱下山田支山として安達仁造(筑豊石炭鉱業組合総長を歴任)の指揮のもと、同三〇年に旧坑跡を修理、採掘に着手した。翌三二年には八〇キロワット発電機が設置されたが、炭鉱における電力使用はこれが本邦初となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報