日本歴史地名大系 「下帯広村」の解説 下帯広村しもおびひろむら 北海道:十勝支庁帯広市下帯広村[現在地名]帯広市大通北(おおどおりきた)・大通南(おおどおりみなみ)・東一条北(ひがしいちじようきた)・東一条南(ひがしいちじようみなみ)・東二条北(ひがしにじようきた)・東二条南(ひがしにじようみなみ)・東三条北(ひがしさんじようきた)・東三条南(ひがしさんじようみなみ)・東四条北(ひがしよじようきた)・東四条南(ひがしよじようみなみ)・東五条北(ひがしごじようきた)・東五条南(ひがしごじようみなみ)・東六条北(ひがしろくじようきた)・東六条南(ひがしろくじようみなみ)・東七条北(ひがしななじようきた)・東七条南(ひがしななじようみなみ)・東八条北(ひがしはちじようきた)・東八条南(ひがしはちじようみなみ)・東九条北(ひがしきゆうじようきた)・東九条南(ひがしきゆうじようみなみ)・大川町(おおかわちよう)・依田町(よだちよう)・西一条北(にしいちじようきた)・西一条南(にしいちじようみなみ)・西二条北(にしにじようきた)・西二条南(にしにじようみなみ)・西三条北(にしさんじようきた)・西三条南(にしさんじようみなみ)・西四条北(にしよじようきた)・西四条南(にしよじようみなみ)・西五条北(にしごじようきた)・西五条南(にしごじようみなみ)・西六条北(にしろくじようきた)・西六条南(にしろくじようみなみ)・西七条北(にしななじようきた)・西七条南(にしななじようみなみ)・西八条北(にしはちじようきた)・西八条南(にしはちじようみなみ)・西九条北(にしきゆうじようきた)・西九条南(にしきゆうじようみなみ)・西十条北(にしじゆうじようきた)・西十条南(にしじゆうじようみなみ)・西十一条北(にしじゆういちじようきた)・西十一条南(にしじゆういちじようみなみ)・西十二条北(にしじゆうにじようきた)・西十二条南(にしじゆうにじようみなみ)・西十三条北(にしじゆうさんじようきた)・西十三条南(にしじゆうさんじようみなみ)・西十四条南(にしじゆうよじようみなみ)・西十五条南(にしじゆうごじようみなみ)・新町西(しんまちにし)・新町東(しんまちひがし)・公園東町(こうえんひがしまち)・緑ヶ丘(みどりがおか)・字緑ヶ丘・緑ヶ丘一条通(みどりがおかいちじようどおり)・緑ヶ丘二条通(みどりがおかにじようどおり)・緑ヶ丘三条通(みどりがおかさんじようどおり)・緑ヶ丘東通西(みどりがおかひがしどおりにし)・緑ヶ丘東通東(みどりがおかひがしどおりひがし)明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治三五年(一九〇二)まで存続した河西(かさい)郡の村。十勝川の右岸、帯広川の下流域にある。南を売買(うりかい)川、東を札内(さつない)川が流れる。近世にはトカチ場所のうち。明治初年ヲベレベレフなどの地を包含して成立した。明治三年のヲベレベレフ村のアイヌの戸口は四戸・二一人、うち男九・女一二(十勝広尾雑記)。その後下帯広・上帯広・荊苞(ばらとう)の三ヵ村に分離したとみられる。「十勝国地誌提要」には下帯広村とみえ、同六年のアイヌの戸口は三戸・一八人(男一〇・女八)。同九年の大小区画沿革表には「下帯広(しもおびるびるぶ)村」とある。同年石狩川筋から音更(おとふけ)川上流を経て十勝川筋に出た松本十郎は七月四日「ヲヒロヒロフ村」に至って昼食をとり、「乙名マヱカヱヌノ家ニ休息。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by