下座郡(読み)げざぐん

日本歴史地名大系 「下座郡」の解説

下座郡
げざぐん

筑前国の南東部に位置し、東は上座じようざ郡、北から西は夜須やす郡、南は筑後川を挟んで筑後国竹野たけの郡に接する。近世の郡域はおよそ現甘木市南端部の中央から南西部に相当する。

〔古代〕

「延喜式」民部上、「和名抄」諸本に下座とみえ、文字の異同はない。国立公文書館内閣文庫本「延喜式」の傍訓は「シモツクラ」であるが、「和名抄」東急本・元和古活字本の訓「下都安佐久良」から「しもつあさくら」と読む。アサクラ郡(表記は旦座郡か)が上下に分割された名称で、「下座」の二字表記が確定した後、「しもつくら」「げざ」の訓が生じたと考えられる。大宝四年(七〇四)二月一一日の大宰府移案(保安元年六月二八日観世音寺公験案「大宝四年縁起」大東急記念文庫蔵)にみえる「上旦鹿郡」が「上旦座郡」の誤写と考えられることから、同時期には「下旦座郡」と表記されたものと思われる。郡家を現甘木市牛鶴うしづるの小字郡ノに比定する説がある。「延喜式」神名帳に名神大社として美奈宜みなぎ神社三座が載るが、現甘木市の林田はやしだ荷原いないばるに同名社があり、いずれに比定するかで論争がある。「和名抄」によれば、馬田うまた青木あおきくわえ三城みつき美嚢みなぎ城辺きのへ立石たてしの七郷が存在した。

〔中世〕

当郡北部と夜須郡にまたがる「北山中」に天慶元年(九三八)筥崎宮塔院領の秋月庄が成立した。郡の中央部から南部にかけて成立した三奈木みなぎ(現甘木市)平家没官領であったらしく、鎌倉将軍家から九条道家に進上され、さらに道家から京都東福寺に寄進された。弘安九年(一二八六)閏一二月二八日には、岩門合戦の恩賞として小浜幸為に「下座郡内灯油田畠武藤四郎左衛門尉跡」が与えられた(「蒙古合戦并岩門合戦勲功地配分注文」比志島文書/鎌倉遺文二一)鎌倉幕府が倒れると、元弘三年(一三三三)一〇月三日に後醍醐天皇は肥後阿蘇あそ(現熊本県一の宮町)の大宮司である宇治惟直に当郡などの地頭職を与え、一族で支配することを命じている(「後醍醐天皇綸旨案」阿蘇文書/鎌倉遺文四二)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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