安土(あづち)桃山時代の武将。筑前(ちくぜん)国福岡藩主。孝高(よしたか)の子。永禄(えいろく)11年12月3日、播磨(はりま)国飾東(しきとう)郡姫路に生まれる。1577年(天正5)10歳のとき父孝高が織田信長に属したため人質として信長のもとに送られ、豊臣(とよとみ)秀吉に預けられた。82年初めて秀吉の中国攻略に従軍。九州平定後は豊前(ぶぜん)(大分県)中津に移り、89年孝高の所領を継ぎ従(じゅ)五位下甲斐守(かいのかみ)に叙任された。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役にも従軍。石田三成(みつなり)とは朝鮮在陣中から不仲となっていたが、秀吉没後は徳川家康に従い、関ヶ原の戦いに際しては小早川秀秋(こばやかわひであき)を東軍に寝返らせるなど東軍の勝利に大きく貢献、その功によって筑前(ちくぜん)一国(福岡県)を与えられた。初め粕屋(かすや)郡名島に入ったが、那珂(なか)郡警固(けご)村福崎に城を築いてここに移り、祖先発祥の地(備前(びぜん)福岡)にちなんで福岡と名づけた。1623年(元和9)将軍徳川秀忠(ひでただ)の上京に先だって京都に上ったが、8月4日報恩寺で没した。博多(はかた)松原(福岡市)の崇福寺に葬る。
[柴多一雄]
(小和田哲男)
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近世初期の武将。孝高(よしたか)の子。幼少より人質として豊臣(羽柴)秀吉のもとにあり,1582年(天正10)中国経略に初陣して以後,九州征伐,朝鮮出兵等の諸戦役で勇将の名をはせた。89年,父の所領豊前6郡を譲られ,従五位下甲斐守に叙位された。関ヶ原の戦では,父とともに徳川家康にくみし,その功で筑前52万3000石を領した。1623年,将軍秀忠の上洛に先立ち上京し,京都の宿所で病死。
執筆者:高木 傭太郎
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1568.12.3~1623.8.4
織豊期~江戸初期の大名。孝高(よしたか)の子。松寿・吉兵衛。甲斐守・筑前守。洗礼名ダミアン。1577年(天正5)父の人質として織田信長に差し出され,豊臣秀吉に預けられた。87年から秀吉の全国統一に従って転戦し,89年父の隠居により豊前国6郡ほかを襲封。文禄・慶長の役に出陣。1600年(慶長5)徳川家康の会津出兵に先鋒,関ケ原の戦では小早川秀秋の内応を画策し,筑前国50万石余を得て城地を福岡と名づけた。父の死後,棄教した。
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…戦国時代,兵火で町は焼失し,1587年(天正15)に豊臣秀吉が町割りを行い復興した。1600年(慶長5)に入部した黒田長政が福崎に城を築き,その城下を黒田氏ゆかりの備前国邑久(おく)郡福岡にちなんで福岡と命名した。市街の中央を流れる那珂川右岸の商人町博多と,左岸の52万石の城下町福岡が合体して福岡市となったが,駅名,港名も博多で,博多織,博多人形,博多どんたくなど〈博多〉を冠したものが多い。…
…98年(慶長3)秀秋が越前国北ノ庄に移され,筑前は豊臣秀吉の直轄領(太閤蔵入地)となったが,99年には再び秀秋が復帰した。関ヶ原の戦(1600)の後,秀秋の岡山移封のあとをうけて豊前国中津の黒田長政が怡土(いと)郡の西半分を除くほぼ筑前一国を与えられて入部した。 長政は名島城を廃し新しい城地を博多の西隣,那珂郡警固(けご)村の内に定め,福岡と名づけた。…
※「黒田長政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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