日本大百科全書(ニッポニカ) 「下末吉層」の意味・わかりやすい解説
下末吉層
しもすえよしそう
地質学者大塚弥之助(やのすけ)によって、横浜市鶴見区下末吉の宝泉寺裏の露頭を模式地として1930年(昭和5)に命名された新生代後期更新世の地層。当初は、ホウセンジグルミJuglans sieboldiana eosenjinaを産する地層が下末吉層とされていた。その後の多くの研究を踏まえ、1970年(昭和45)、関東第四紀研究会によって、横浜市鶴見区・港北区一帯に分布する下末吉台地を構成する地層として再定義された。それによると、模式地の下末吉層は一連の海進の堆積(たいせき)物であり、泥層とその上位の砂層よりなる。泥層は、狭長な溺れ谷(おぼれだに)の埋積物で、層厚は10メートル以上に達することがある。砂層は広大な波食台を形成する海成砂層で、一般に層厚は5メートル以下である。
[伊藤谷生]
下末吉層を堆積させた海進は、全世界的な温暖化により氷床などが融(と)け、海水面が上昇したことによって生じたものである。したがって、日本および世界各地に、下末吉層に相当する海進堆積物は存在する。この温暖期は、最終間氷期(かんぴょうき)最盛期ともいう。過去の気温を推定する手がかりとなる深海底堆積物の酸素同位体変動曲線(海洋酸素同位体ステージ)は曲線の山である間氷期に奇数番号を、谷である氷期に偶数番号をつけて時代を区分させているが、この時期は約12.5万年前のステージ5.5(5e)のピークにあたる。当時の海水面は現在よりさらに5~6メートル高かったと推定されている。
[笠間友博]