日本歴史地名大系 「下柳村」の解説 下柳村しもやなぎむら 埼玉県:北葛飾郡庄和町下柳村[現在地名]庄和町下柳上柳村の南、庄内古(しようないふる)川左岸に立地する。正保年中(一六四四―四八)に開かれたという(郡村誌)。幕府領で幕末に至ったとみられる。延宝三年(一六七五)の検地帳(小林家文書)によると田三町四反余・畠一一三町八反余・屋敷一〇町七反余で、このほか庄内古川通りの出洲草銭場三反余があった。天明八年(一七八八)の村明細帳(小林家文書)によれば、延宝三年の検地では田方三町四反余はすべて下田で石盛七ツ、畑方は上畑一九町八反余・中畑三一町一反余・下畑六二町七反余で石盛は一〇から二ツ下がり、屋敷一〇町九反余で石盛は一〇となっており、高掛りは伝馬宿入用米五斗六升五合・六尺給米九斗五升七合・蔵前入用永一貫一九六文。 下柳村しもやなぎむら 新潟県:長岡市下柳村[現在地名]長岡市下柳町・下柳一―三丁目・宮関(みやぜき)三―四丁目・荻野(おぎの)一―二丁目・藤沢(ふじさわ)一丁目・江陽(こうよう)一丁目信濃川の左岸沿いにある。堤防沿いの北東は荻野新田、同じく西は宮関村に至る。口碑によれば、信濃川の中洲柳島の北方に位置し、四面沼地であったが、室町時代の初め大島氏の遺臣池田・渡辺の諸臣が来て開発し、村立てをしたという。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by