下田隼人(読み)しもだ・はやと

朝日日本歴史人物事典 「下田隼人」の解説

下田隼人

没年:万治3.12.23(1661.1.23)
生年:生年不詳
江戸時代の小田原藩相模国関本村(神奈川県南足柄市)名主。小田原藩は財政難から,万治1~3(1658~60)年に領内総検地を実施した。年貢米増徴のほかに麦租の徴収を命じられた足柄上・下両郡148カ村の農民一揆を計画したが,当時70歳余の隼人は名主寄合で一揆を思いとどまらせる一方,農民を代表して藩役所に麦租の撤回を嘆願した。願いは聞き入れられず,隼人は藩主への駕籠訴決行。麦租は中止となったが,隼人は強訴の頭取として死罪になったという。のち明治になってから農村芝居の題材に取り上げられるなど,代表越訴型義民のひとりといえる。

(下重清)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「下田隼人」の解説

下田隼人 しもだ-はやと

?-1661* 江戸時代前期の農民。
相模(さがみ)足柄上郡関本村(神奈川県南足柄市)の名主。小田原藩が新設した麦租に反対して一揆(いっき)を計画した足柄上・下両郡148ヵ村の農民をしずめ,麦租の撤回を藩主に直訴(じきそ)。麦租は一時中止となったが責任者として捕らえられ,万治(まんじ)3年12月23日処刑された。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の下田隼人の言及

【小田原藩】より

…その後阿部正次が一時在城した後,32年(寛永9)老中稲葉正勝が下野国真岡より移封(8万5000石),その子正則が老中のかたわら藩領経営に全力をあげ,小田原藩政の基礎を築いた(10万3000石,後11万3000石)。小田原城修築,城下町整備,小田原用水完成のほか47‐60年(正保4‐万治3)の領内(相模,駿河)総検地実施等の成果をあげたが,60年には足柄上郡関本村の下田隼人による年貢減免要求の越訴などの抵抗をうけるに至った。85年(貞享2)稲葉氏は越後国高田に移封,86年に老中大久保忠朝が下総国佐倉より再入部した(10万3000石,後に11万3000石)。…

※「下田隼人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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