小田原藩(読み)おだわらはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「小田原藩」の意味・わかりやすい解説

小田原藩
おだわらはん

相模(さがみ)国(神奈川県)小田原城を居城とする譜代(ふだい)中藩。1590年(天正18)徳川家康の家臣大久保忠世(ただよ)が4万石で入部(のちに4万5000石)、子の忠隣(ただちか)は6万5000石に加増、1614年(慶長19)忠隣が大久保長安(ながやす)事件で改易、以後領地は1632年(寛永9)まで幕領、城は番城(ばんじろ)となる。この間1619年(元和5)より1623年まで阿部正次(まさつぐ)が5万石で城主となる。1632年稲葉正勝(まさかつ)が下野(しもつけ)国真岡(もおか)より入部(8万5000石)、正則(まさのり)(11万7000石)、正通(まさみち)(正往(まさゆき)、10万2000石)と続く。1686年(貞享3)大久保忠朝(ただとも)が下総(しもうさ)国佐倉(さくら)より祖父の故地に入部(10万3000石)、忠増(ただます)(11万3000石、以後変わらず)、忠方(ただまさ)、忠興(ただおき)、忠由(ただよし)、忠顕(ただあき)、忠真(ただざね)、忠(ただなお)、忠礼(ただのり)、忠良(ただよし)と続き、1871年(明治4)廃藩、小田原県となり、足柄(あしがら)県を経て神奈川県に編入された。領地は相模国足柄上(かみ)・下(しも)2郡、駿河(するが)国駿東(すんとう)郡(1633年以後)の大部分が城付地で、ほかに1686年当時、伊豆国加茂(かも)郡、下野(しもつけ)国芳賀(はが)郡、播磨(はりま)国多賀(たが)郡、河内(かわち)国交野(かたの)郡・讃良(ささら)郡・茨田(まんだ)郡の各一部にあった(城付地以外は変遷がある)。

 初期の大久保氏は城付地の足柄平野の治水工事に尽力、稲葉正則の代には城付地の総検地、小田原城の大修築、城下町の整備その他領内経営の基礎を築いた。大久保忠増の1703年(元禄16)小田原大地震、1707年(宝永4)富士山噴火と災害が続き、1708年城付地の被災地5万6000石が幕領に編入された。1747年(延享4)大部分の替地(かえち)は旧に復した。稲葉氏以来藩士の知行地(ちぎょうち)制はとらず、江戸在府の長い藩主にかわって留守(るす)家老以下が領地を支配した。藩士は江戸定詰と小田原在住に分かれ、小田原在住者には半年交代の江戸在勤があった。飛地(とびち)は代官以下足軽(あしがる)が在勤し、関西の地は奉行(ぶぎょう)が統括し、別に大坂蔵屋敷詰があった。しかし藩財政窮乏のため1712年(正徳2)半知となり、以後はその3~5割支給が常態であった。大久保忠真の代に二宮尊徳(にのみやそんとく)を起用して報徳仕法(ほうとくしほう)を実施したが、領内の再建は成功しなかった。

[内田哲夫]

『『新編物語藩史 第3巻』(1976・新人物往来社)』『岩崎宗純・内田清・内田哲夫著『江戸時代の小田原』(1980・小田原市立図書館)』『内田哲夫著『小田原藩』(1981・有隣堂)』


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改訂新版 世界大百科事典 「小田原藩」の意味・わかりやすい解説

小田原藩 (おだわらはん)

相模国(神奈川県)足柄下郡小田原に藩庁を置いた譜代中藩。1590年(天正18)大久保忠世が小田原4万石を領したのに始まり,忠世,忠隣(ただちか)の2代に検地の実施,酒匂(さかわ)川大口堤の修築,酒匂堰の開削等に意を注いだが,1614年(慶長19)忠隣改易によって城は番城,領地は幕府代官が預かった。その後阿部正次が一時在城した後,32年(寛永9)老中稲葉正勝が下野国真岡より移封(8万5000石),その子正則が老中のかたわら藩領経営に全力をあげ,小田原藩政の基礎を築いた(10万3000石,後11万3000石)。小田原城修築,城下町整備,小田原用水完成のほか47-60年(正保4-万治3)の領内(相模,駿河)総検地実施等の成果をあげたが,60年には足柄上郡関本村の下田隼人による年貢減免要求の越訴などの抵抗をうけるに至った。85年(貞享2)稲葉氏は越後国高田に移封,86年に老中大久保忠朝が下総国佐倉より再入部した(10万3000石,後に11万3000石)。その子忠増の代に1703年(元禄16)の大地震,07年(宝永4)の富士山噴火と苦難の藩政が続いた。噴火による被災地(駿河国駿東郡,相模国足柄上・下両郡)192ヵ村,5万6000石が上知となり伊豆,三河,美濃,播磨の4ヵ国11郡の村々が藩領に編入された。47年(延享4)大部分の旧藩領が返還されたが,酒匂川の洪水や降灰による生産力の低下のため藩財政は窮乏の一途をたどった。すでに1712年(正徳2)藩士の半知借上げ以後支給率20~30%が常態を呈していた。60年以降年貢の増徴,先納などの措置がとられ,83年(天明3)には駿河国駿東郡の農民約500名が年貢減免を要求して一揆を起こした。90年代(寛政期)からは大坂・京都商人の大名貸が藩財政を支え,1810年(文化7)藩主忠真の大坂城代就任以後,18年(文政1)所司代より老中昇進までの上方在勤によって,上方商人への依存度が強まった。この間忠真の藩政改革の一環として1811年より国産奨励がなされ,支出削減などの財政再建を図ったが,17年の小田原大火,36年(天保7)の大飢饉,53年(嘉永6)以降の海外防備等によりますます窮乏化した。68年(明治1)の戊辰戦争には新政府に帰順した後,旧幕府遊撃隊に呼応したため藩主忠礼は永蟄居,禄高7万5000石に減じられた。71年廃藩置県により小田原県となった。
大久保氏
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藩名・旧国名がわかる事典 「小田原藩」の解説

おだわらはん【小田原藩】

江戸時代相模(さがみ)国足柄下(あしがらしも)郡小田原(現、神奈川県小田原市)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は集成館(のち文武館)。1590年(天正(てんしょう)18)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐で後北条(ごほうじょう)氏が滅ぼされ、徳川家康(とくがわいえやす)が関東に入国、譜代の大久保忠世(ただよ)を小田原城主とした(4万石)。子の忠隣(ただちか)は6万5000石に加増されたが、1614年(慶長(けいちょう)19)、大久保長安(ながやす)事件で改易(かいえき)、領地は天領となった。阿部正次(まさつぐ)が一時在城したあと、32年(寛永(かんえい)9)に老中稲葉正勝(まさかつ)下野(しもつけ)国真岡(もおか)藩から8万5000石で転封(てんぽう)(国替(くにがえ))、この稲葉氏3代で藩政の基礎がつくられた。次いで、86年(貞享(じょうきょう)3)に下総(しもうさ)国佐倉藩の大久保忠朝(ただとも)が祖父の故地に10万3000石で転封、その2代忠増(ただます)のときに11万3000石となり、以後明治維新まで大久保氏10代が続いた。歴代藩主の多くが幕閣として活躍したが、そのために出費が重なり財政難になった。また1707年(宝永(ほうえい)4)の富士山噴火で大きな被害を受けるなど、自然災害にも悩まされた。19世紀前期の7代忠真(ただざね)のとき二宮尊徳を起用、報徳仕法を実施している。1871年(明治4)の廃藩置県で小田原県となり、その後、足柄県を経て76年神奈川県に編入された。

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百科事典マイペディア 「小田原藩」の意味・わかりやすい解説

小田原藩【おだわらはん】

相模(さがみ)国小田原に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩主は大久保氏・阿部氏・稲葉氏・大久保氏と変遷。稲葉氏時代に城下町の整備・小田原用水完成など藩政の基礎が築かれた。大久保氏時代,1703年の大地震,1707年の富士山噴火などの天災を受け藩政維持に苦しんだ。領知高は相模国足柄上(あしがらかみ)・下2郡などで約5万石〜11万7000石。
→関連項目相模国箱根関

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小田原藩」の意味・わかりやすい解説

小田原藩
おだわらはん

江戸時代,相模国 (神奈川県) 足柄下郡小田原地方を領有した藩。天正 18 (1590) 年大久保忠世が4万石で入封し,子忠隣 (ただちか) が除封となると,阿部氏5万石,稲葉氏8万 5000石と譜代大名が在封し,貞享3 (1686) 年には大久保忠朝が 10万 3000石で下総佐倉 (千葉県) より転じ,元禄7 (94) 年1万石加増,明治2 (1869) 年減封で7万 5000石となり,廃藩置県まで存続。大久保氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「小田原藩」の解説

小田原藩

相模国、小田原(現:神奈川県小田原市)を本拠地とした譜代藩。難攻不落と称された北条氏の居城・小田原城に、天正18年(1590)、徳川家康家臣の大久保忠世が4万石で入封したのが起源。その子忠隣(ただやす)の時代に大久保長安事件により改易、領地は一時天領となる。その後阿部氏、稲葉氏、大久保氏が治めて廃藩置県まで存続した。

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世界大百科事典(旧版)内の小田原藩の言及

【相模国(相摸国)】より

…【田辺 久子】
【近世】

[所領配置]
 1590年8月徳川家康は江戸へ入城し関東8ヵ国の経営に着手するが,相模国へは91年に知行割を実施した。この結果国の西端で江戸から最も離れた足柄上郡,下郡に小田原藩大久保忠世4万石を配し,三浦郡・淘綾郡・津久井郡を徳川氏直轄領,大住郡・愛甲郡・高座郡を直轄領と旗本領とし,また鎌倉郡には直轄領のほかに伝統のある有力寺社の所領を旧来より大幅に削減し,ここにまとめた。結果として箱根の嶮を先端とし西方より江戸への関門に小田原藩を,国内の交通や軍事上の要衝を直轄領,この内部で特に相模川両岸の生産性の高い地域が旗本領となった。…

※「小田原藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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