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康煕帝 こうきてい Kang-xi-di; K`ang-hsi-ti

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

康煕帝
こうきてい
Kang-xi-di; K`ang-hsi-ti

[生]順治11(1654).3.18. 北京
[没]康煕61(1722).11.13. 北京
中国,清朝の第4代皇帝 (在位 1661~1722) 。中国歴代皇帝で最も長く在位した。名は玄よう。諡は仁皇帝。廟号は聖祖。年号は康煕。順治帝の第3子で遺命により8歳で即位。初めは4人 (ソニン,スクサハ,エビルン,オボイ) の輔政大臣の手に実権があったが,康煕8 (1669) 年にオボイを捕えて親政を開始した。

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百科事典マイペディアの解説

康煕帝【こうきてい】

中国,清朝第4代の皇帝。廟号は聖祖,諡(おくりな)は仁皇帝。順治帝の第3子。8歳にして即位(在位1661年―1722年)。オボイら4人の輔政大臣が補佐,1667年以後親政。
→関連項目耕織図地丁銀中華人民共和国典礼問題内閣(中国)熱河離宮佩文韻府雍正帝

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

康煕帝
こうきてい
(1654―1722)

中国、清(しん)朝第4代の皇帝(在位1661~1722)。名は玄(げんよう)、また玄曄。諡(おくりな)は仁皇帝。廟号(びょうごう)は聖祖。年号によって康煕帝とよばれる。順治帝の第3子。生母は(トゥンギャ)氏で、功臣の一等承恩公図頼(トライ)の娘。氏は康煕帝の即位に伴い皇太后を贈られた。皇后は赫舎里(ヘエシェリ)氏で輔政(ほせい)大臣索尼(ソニン)の孫女。子供は男35人、女20人あった。在位期間60年と、中国歴代皇帝のうちでももっとも長く帝位にあり、「康煕(こうき)・乾隆(けんりゅう)の盛世」と称されて清朝の最盛期にあたる時代であった。
 順治帝没後に8歳で即位し、4人の輔政大臣(索尼、蘇克薩哈(スクサハ)、遏必隆(エビルン)、鰲拝(オボイ))の下で治政が始まったが、1669年にもっとも専横な権力を振るったオボイを討ち、親政を開始した。親政当時、明(みん)朝最後の桂王永暦帝の勢力は滅び、反清勢力の中心鄭成功(ていせいこう)一族も弱体化していたが、かわって、中国平定に功のあった漢人将軍、平西王呉三桂(ごさんけい)、平南王尚可喜(しょうかき)、靖南(せいなん)王耿継茂(こうけいも)の三藩が独立王国的な存在として、清朝統治に重大な障害となった。1673年に尚藩の撤廃問題に端を発した三藩の乱は一時は揚子江(ようすこう)以南を支配下に収め、清朝の基盤を揺るがした。しかし、清朝の巧みな用兵で、民衆の支持を受けえなかった三藩をつぶし、1683年には鄭氏を滅ぼしその拠点台湾を支配して、中国全土の強固な支配体制を確立した。一方、内蒙古(もうこ)では、清朝の支配に不満をもつチャハル親王家が三藩の乱に呼応して反乱したが、これも討ち、内蒙古を清朝の直轄統治下に置いた。また、外蒙古では、ジュンガル部のガルダンの勢力が強くなり、内蒙古に影響を及ぼす勢いとなったので、1696年に親征し、ジョーモドの戦いでガルダン軍を粉砕、1697年ガルダンの死とともに外蒙古を支配下に収めた。ジュンガルの勢力はツェンワンアラブータンにより受け継がれチベットに入ったため、1718年にチベット遠征軍を送り、1720年にジュンガル軍を討って、チベットを保護下に置いた。
 このように、中国本土、内外蒙古、チベットを支配し、その統治体制を確立したが、国際的にはロシアの南下勢力と対立、これに対抗するため三藩の乱平定後に愛琿(あいぐん)城を築き、ロシアの拠点アルバジン城を1685年、1686年に撃破して、清朝の優位下に、ゴルビッツァ川とヤブロノイ山脈を結ぶ国境線を定めたネルチンスク条約が1689年に締結され、黒竜江方面のロシア勢力を駆逐した。
 打ち続く戦争と広大な支配領域にもかかわらず、質素な国家支出から国家財政に余剰が生じ、総計1億両にも及ぶ減税、盛世滋生人丁(せいせいじせいじんてい)(人頭税の固定化)の実施が行われ、漕運(そううん)の整備に伴う南北の商品流通の活発化、黄河治水の実施などから、明末清初の戦乱による産業、経済の疲弊は急速に回復した。また、帝はしばしば国内の巡行(南巡、東巡)を行っている。
 文化面でも、イエズス会宣教師を通じて西洋の学問を吸収し、洋式手法と宇宙観による経緯度を定めた地図『皇輿全覧図(こうよぜんらんず)』を作成、また伝統文化のうえにたつ『古今図書集成』『康煕字典』などの編纂(へんさん)を行っている。晩年には皇太子問題で苦しんだが解決することなく、暢春園(ちょうしゅんえん)離宮で病没した。[細谷良夫]
『ブーヴェ著、後藤末雄訳、矢沢利彦校注『康煕帝伝』(平凡社・東洋文庫) ▽岡田英弘著『康煕帝の手紙』(中公新書)』

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