康煕帝
こうきてい
(1654―1722)
中国、清(しん)朝第4代の皇帝(在位1661~1722)。名は玄燁(げんよう)、また玄曄。諡(おくりな)は仁皇帝。廟号(びょうごう)は聖祖。年号によって康煕帝とよばれる。順治帝の第3子。生母は佟佳(トゥンギャ)氏で、功臣の一等承恩公図頼(トライ)の娘。佟氏は康煕帝の即位に伴い皇太后を贈られた。皇后は赫舎里(ヘエシェリ)氏で輔政(ほせい)大臣索尼(ソニン)の孫女。子供は男35人、女20人あった。在位期間60年と、中国歴代皇帝のうちでももっとも長く帝位にあり、「康煕(こうき)・乾隆(けんりゅう)の盛世」と称されて清朝の最盛期にあたる時代であった。
順治帝没後に8歳で即位し、4人の輔政大臣(索尼、蘇克薩哈(スクサハ)、遏必隆(エビルン)、鰲拝(オボイ))の下で治政が始まったが、1669年にもっとも専横な権力を振るったオボイを討ち、親政を開始した。親政当時、明(みん)朝最後の桂王永暦帝の勢力は滅び、反清勢力の中心鄭成功(ていせいこう)一族も弱体化していたが、かわって、中国平定に功のあった漢人将軍、平西王呉三桂(ごさんけい)、平南王尚可喜(しょうかき)、靖南(せいなん)王耿継茂(こうけいも)の三藩が独立王国的な存在として、清朝統治に重大な障害となった。1673年に尚藩の撤廃問題に端を発した三藩の乱は一時は揚子江(ようすこう)以南を支配下に収め、清朝の基盤を揺るがした。しかし、清朝の巧みな用兵で、民衆の支持を受けえなかった三藩をつぶし、1683年には鄭氏を滅ぼしその拠点台湾を支配して、中国全土の強固な支配体制を確立した。一方、内蒙古(もうこ)では、清朝の支配に不満をもつチャハル親王家が三藩の乱に呼応して反乱したが、これも討ち、内蒙古を清朝の直轄統治下に置いた。また、外蒙古では、ジュンガル部のガルダンの勢力が強くなり、内蒙古に影響を及ぼす勢いとなったので、1696年に親征し、ジョーモドの戦いでガルダン軍を粉砕、1697年ガルダンの死とともに外蒙古を支配下に収めた。ジュンガルの勢力はツェンワンアラブータンにより受け継がれチベットに入ったため、1718年にチベット遠征軍を送り、1720年にジュンガル軍を討って、チベットを保護下に置いた。
このように、中国本土、内外蒙古、チベットを支配し、その統治体制を確立したが、国際的にはロシアの南下勢力と対立、これに対抗するため三藩の乱平定後に愛琿(あいぐん)城を築き、ロシアの拠点アルバジン城を1685年、1686年に撃破して、清朝の優位下に、ゴルビッツァ川とヤブロノイ山脈を結ぶ国境線を定めたネルチンスク条約が1689年に締結され、黒竜江方面のロシア勢力を駆逐した。
打ち続く戦争と広大な支配領域にもかかわらず、質素な国家支出から国家財政に余剰が生じ、総計1億両にも及ぶ減税、盛世滋生人丁(せいせいじせいじんてい)(人頭税の固定化)の実施が行われ、漕運(そううん)の整備に伴う南北の商品流通の活発化、黄河治水の実施などから、明末清初の戦乱による産業、経済の疲弊は急速に回復した。また、帝はしばしば国内の巡行(南巡、東巡)を行っている。
文化面でも、イエズス会宣教師を通じて西洋の学問を吸収し、洋式手法と宇宙観による経緯度を定めた地図『皇輿全覧図(こうよぜんらんず)』を作成、また伝統文化のうえにたつ『古今図書集成』『康煕字典』などの編纂(へんさん)を行っている。晩年には皇太子問題で苦しんだが解決することなく、暢春園(ちょうしゅんえん)離宮で病没した。
[細谷良夫]
『ブーヴェ著、後藤末雄訳、矢沢利彦校注『康煕帝伝』(平凡社・東洋文庫)』▽『岡田英弘著『康煕帝の手紙』(中公新書)』
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康煕帝 (こうきてい)
Kāng xī dì
生没年:1654-1722
清朝第4代皇帝。在位1661-1722年。順治帝の第3子。名は玄燁(げんよう),廟号は聖祖,年号によって康煕帝とよばれる。清朝260年の基礎をきずきあげた点において,また満人出身であるにもかかわらず朱子学を信奉し,中国的皇帝の理想像に近づこうとつとめた点において,歴代王朝の数ある皇帝のなかでも名君の一人といわれる。1661年(順治18),数え年8歳で即位したが,幼年のためオボイら4人の満人重臣が輔政大臣すなわち摂政として一時権力をふるった。69年(康煕8),帝はクーデタによりこれをたおし,以後は50余年間にわたり名実ともに政治の実権をにぎった。清朝は中国征服に功績のあった呉三桂ら漢人藩王3人を,雲南はじめ南方諸省に封じていたが,かれら三藩は軍事・財政・人事の特権をにぎり,半独立の専横ぶりを発揮したので,73年,帝は彼らに満州への引きあげを命じ,これをきっかけに三藩の乱が起こった。乱は湖南省を中心に南方一帯に拡大し,一時は中国を二分する勢いをしめしたが,帝の巧みな用兵と火砲の威力により,また三藩の側の分裂や呉三桂の死なども影響して,81年平定され,あわせて83年には,長く台湾によって三藩に呼応していた鄭氏の乱も平定されて,清朝の基礎はこれによって固まり,以後台湾は中国領となった。
シベリアを東進したロシア人が,先帝のころには満州に入りこみ,黒竜江岸にアルバジン城を築いて一帯を征服,開拓しはじめた。康煕帝は出兵してロシア人を駆逐し,89年ロシアとネルチンスク条約を結び,外興安嶺を両国の国境と定めた。一方天山山脈北方の草原では,モンゴル系ジュンガル部がしだいに強大となり,部長ガルダンが外モンゴルに侵入した。ハルハ部の諸王は東方にのがれ,清朝に救援をもとめた。そこで康煕帝は90年,内モンゴルのウランプトンに親征してジュンガル軍と戦い,さらに96年には外モンゴルのジョーモドでガルダンをうち破った。敗れたガルダンは翌年窮死し,外モンゴルはこれより清領となった。ジュンガル部では,その後部長ツェワン・アラプタンがチベットに侵入し,ラサを占領した。帝は1720年,討伐軍を派してジュンガル軍を駆逐し,チベットを清の保護領とした。
康煕帝は生来学問好きでもあり,また満人出自という感情からも,異常なほど儒学とくに朱子学の習得にはげみ,臣下にも奨励した。宮中に南書房という学問所を設けて,少壮官僚を集めて談論し,明朝の遺老には科挙に博学鴻詞科を設けて登用の途をひらき,学者を集めて,《康煕字典》はじめ《佩文韻府》《淵鑑類函》《古今図書集成》等,大規模な書物編纂事業を興したが,これなども一面では満人王朝として漢人知識人を利用し慰撫する手段でもあった。帝はまたフェルビースト,ブーベらイエズス会宣教師から,天文,暦法はじめ西洋科学を摂取し,彼らに土地を測量させて,中国最初の実測地図《皇輿全覧図》を作らせた。そのほかにも,黄河,大運河の治水事業をすすめ,租税の全国的減免を試みるなど,多くの業績をのこしたが,他方側近政治をつづけたため官僚間の党争もやむことなく,晩年には皇太子冊立に失敗するなど,失政もみられた。
執筆者:北村 敬直
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康煕帝
こうきてい
Kang-xi-di; K`ang-hsi-ti
[生]順治11(1654).3.18. 北京
[没]康煕61(1722).11.13. 北京
中国,清朝の第4代皇帝 (在位 1661~1722) 。中国歴代皇帝で最も長く在位した。名は玄よう。諡は仁皇帝。廟号は聖祖。年号は康煕。順治帝の第3子で遺命により8歳で即位。初めは4人 (ソニン,スクサハ,エビルン,オボイ) の輔政大臣の手に実権があったが,康煕8 (1669) 年にオボイを捕えて親政を開始した。当時,順治朝の中国全土の平定戦争に大功のあった漢人将軍,平西親王呉三桂を代表とする三藩の処遇が問題であったが,同 12年に撤藩を命じ,三藩の乱の大動乱を引起した。しかし同 20年にかけてこれを平定,あわせて台湾の鄭氏一族をも滅ぼして名実ともに中国支配を完成させた。対外的にも内モンゴルのチャハル (察哈爾) 親王家を滅ぼしこれを支配 (77) またジョーン・モド (昭莫多)の戦いでジュンガル (準 噶爾) のガルダン (噶爾丹)を討ち外モンゴルに支配を確立し,チベットを保護下において支配地域を拡大した。さらに南下したロシアの勢力と対決して同 24,25年にアルバジンでこれを討ち,清朝優位のうちに同 28年ネルチンスク条約を締結し,広くアジア全域にわたる支配権を確立した。一方,内政面でも莫大な国家財政の余剰に伴う盛世滋生人丁の制,漕運の整備,黄河の治水などを実施し,続く雍正・乾隆朝の3代にわたる清朝最盛期を現出した。文化面では『古今図書集成』『康煕字典』の編纂,イエズス会宣教師の技術による中国の実測地図『皇輿全覧図』の作成などが行われた。帝の晩年は皇太子問題で悩み,次子の胤じょう (いんじょう) を廃太子とするにいたった。
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康煕帝 (こうきてい)
生年月日:1654年3月18日
中国,清の第4代皇帝(在位1661〜1722)
1722年没
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世界大百科事典(旧版)内の康煕帝の言及
【清】より
…こうして18年にわたる[南明]諸王の明朝復興運動は成功することなく終わった。 順治帝の死後,61年(順治18)その子聖祖康熙帝が即位した。幼帝であったので4人の輔政大臣すなわち摂政が置かれた。…
【佩文斎書画譜】より
…中国,清の康熙帝勅撰の書画文献集成。主編者は孫岳頒だが実際の責任者は[王原祁](おうげんき)。…
※「康煕帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」