世良修蔵(読み)せらしゅうぞう

改訂新版 世界大百科事典 「世良修蔵」の意味・わかりやすい解説

世良修蔵 (せらしゅうぞう)
生没年:1835-68(天保6-明治1)

幕末志士。防州大島郡椋野村久保田氏に生まれ,長州藩寄組浦家の家臣木谷家,のち世良家に入った。名は砥徳,修蔵は通称尊王攘夷運動に参加し,奇兵隊に入隊し,1865年(慶応1)第2奇兵隊の軍監に任ぜられて活躍した。奥羽鎮撫総督府参謀として会津征討に赴き,福島に滞陣中,奥羽諸藩の寛典請願を退けたため仙台藩士らの反感を買い,宿舎を襲われ,寿川河原で暗殺された。
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朝日日本歴史人物事典 「世良修蔵」の解説

世良修蔵

没年:明治1.閏4.20(1868.6.10)
生年:天保6.7.14(1835.8.8)
幕末の長州(萩)藩の志士。周防国大島郡椋野村(山口県久賀町)に庄屋中司八郎右衛門の子として生まれる。初め,長州藩重臣浦靭負の家臣木谷良蔵の養子となり,のち世良氏を継いだ。月性に学び,さらに江戸遊学。資性,豪勇気節あり。奇兵隊に入って書記となり,慶応1(1865)年第二奇兵隊の編成に当たり軍監となる。翌年の幕長戦争では大島口に戦った。明治1(1868)年3月には奥羽鎮撫総督府下参謀となり,仙台藩に会津藩攻撃を命ずる強硬論を説いた。福島に滞在中,会津藩に対する寛容な処置を請う仙台藩よりの使者が送られたが,これを拒否する。恨みを受け,旅宿で捕らえられて斬殺された。34歳だった。<参考文献>谷林博『世良修蔵』

(三宅紹宣)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「世良修蔵」の意味・わかりやすい解説

世良修蔵
せらしゅうぞう
(1835―1868)

維新の志士。名は砥徳、号を周陽という。周防(すおう)国(山口県)大島郡に長州藩士中司氏の子として生まれ、世良氏を継ぐ。奇兵隊書記、第二奇兵隊軍監を経て、戊辰(ぼしん)戦争に際し奥羽鎮撫(ちんぶ)総督軍の下参謀に任命された。会津藩の軍事攻略を主張して、奥羽同盟諸藩の和平嘆願書をはねつけたため、1868年(慶応4)閏(うるう)4月20日早暁、福島城下金沢屋に宿泊中、仙台・福島両藩士に捕らわれ、須川河原で斬(き)られた。のち宮城県白石市陣場山(じんばやま)官墓に葬られた。

[難波信雄]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「世良修蔵」の解説

世良修蔵 せら-しゅうぞう

1835-1868 幕末の武士
天保(てんぽう)6年7月14日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩の奇兵隊書記,第二奇兵隊軍監。戊辰(ぼしん)戦争では奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府参謀となり,会津(あいづ)藩の武力征討を主張し,慶応4年閏(うるう)4月20日福島で仙台藩士らに殺害された。34歳。周防(すおう)(山口県)出身。本姓は中司。名は砥徳。字(あざな)は他山。号は周陽。

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世界大百科事典(旧版)内の世良修蔵の言及

【奥羽越列藩同盟】より

戊辰戦争に際し,東北・北陸諸藩が結んだ反薩長同盟。1868年(明治1)3月下旬,奥羽鎮撫総督九条道孝は,参謀大山綱良(つなよし),世良修蔵らとともに仙台に入り,東北諸藩に会津藩征討の命を発した。仙台藩と米沢藩は,会津藩の謝罪と寛典の斡旋を行い,閏4月11日,盛岡,二本松など14藩の重臣を仙台藩白石城に集め,総督府に列藩連署の嘆願書を提出した。…

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