会津藩
あいづはん
陸奥(むつ)国会津郡を中心に置かれた藩。室町時代には蘆名(あしな)氏の所領であったが、1589年(天正17)伊達政宗(だてまさむね)に奪われた。しかし、翌年豊臣(とよとみ)秀吉は政宗よりこれを没収、蒲生氏郷(がもううじさと)が入部することになる。氏郷は若松城の築城と城下町および領内交通網の整備を行い、「文禄(ぶんろく)三年蒲生領高目録」を作成した。1598年(慶長3)上杉景勝(かげかつ)120万石、1601年蒲生秀行(ひでゆき)60万石、1627年(寛永4)加藤嘉明(よしあき)40万石と続き、その子明成(あきなり)が継いだが、重臣堀主水(もんど)と抗争し、1643年領地を幕府に返上、取潰(とりつぶ)しとなった(会津騒動)。同年出羽(でわ)国山形から保科正之(ほしなまさゆき)が入部し23万石を領し、南山御蔵入(みなみやまおくらいり)領5万1200石余も私領同様の取扱いで預かった。正之は3代将軍徳川家光(いえみつ)の異母弟で、1669年(寛文9)隠居するまで幕政に参画した。正之は会津就封後、領内に「地下仕置条々(じげしおきじょうじょう)」を発し、正保(しょうほう)年間(1644~1648)までに、領内物資の領外流出禁止(留物制)、市場の再興、蝋(ろう)・漆(うるし)の専売、買米(かいまい)制の実施などを定め、1648年(慶安1)領内総検地、1654年(承応3)社倉(しゃそう)法の制定、1658年(万治1)定免(じょうめん)制の採用などにより藩体制を固めた。1696年(元禄9)3代正容(まさかた)のとき松平姓と葵(あおい)紋を賜り、御三家(ごさんけ)に続く御家門として揺るぎなき地位を確立した。
元禄(げんろく)(1688~1704)以降、他藩と同様藩財政は悪化し、京都の三井などから借財する一方、1717年(享保2)には現物収納を強化した「反畝取(たんせどり)」の法を採用し、徹底した収奪を図ったので、農村を疲弊に追い込む結果となった。1729年ふたたび定免制に切り替え、社倉籾(もみ)の積極的貸付などによって利息をとり、財政立て直しを図ろうとした(享保(きょうほう)の財政改革)。しかし江戸屋敷の類焼、若松城下の大火、江戸城堀さらいなどによる出費がかさみ、宝暦(ほうれき)期(1751~1764)には40万両もの借財となった。加えて1749年(寛延2)会津藩政史上最大の農民一揆(いっき)(会津寛延一揆)が発生し、藩は若松城下に押しかけた農民の要求をいれ、年貢の減免、手余地(てあまりち)の解消など民心の安定を図った。しかし天明(てんめい)の大飢饉(ききん)によって大きな打撃を受け、これを機に藩政の大改革を迫られた。1787年(天明7)5代容頌(かたのぶ)は家老田中玄宰(げんさい)の建議をいれ農村の復興を最重点とする改革に着手、村方秩序の再編、手余地解消のため土地分給、殖産興業の推進などを実施し、同時に1799年(寛政11)藩校日新館を創設し、領内15か所に郷校を設置し教育の普及を図り、1789年(寛政1)には軍事奉行(ぶぎょう)を設置して軍制改革をも行った(寛政の藩政改革)。その後会津藩は全国を襲った天保(てんぽう)の大飢饉をも乗り切ることができた。
最後の藩主となった9代松平容保(かたもり)は、佐幕派の最雄藩として1862年(文久2)京都守護職に就任し、公武合体を推進して活躍した。しかし1867年(慶応3)12月王政復古の大号令で京都守護職は廃止され、1868年(明治1)鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いで始まる戊辰(ぼしん)戦争では、奥羽諸藩が次々と敗れるなかで最後まで抗戦し、同年9月白虎隊(びゃっこたい)の悲劇を残して降伏。翌年、隠退した容保の子容大(かたはる)が陸奥斗南(となみ)(青森県むつ市)3万石に移されて会津は廃藩となった。会津の藩地は若松県となり、1876年(明治9)福島県に併合された。
[誉田 宏]
『会津若松史出版委員会編『会津若松史』全12巻(1981・国書刊行会)』▽『山口孝平著『近世会津史の研究』上下(1978・歴史春秋社)』
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会津藩 (あいづはん)
陸奥国若松に藩庁をおいた藩。1589年(天正17)中世会津を支配した蘆名氏を破り,この地を領した伊達氏はまもなく去り,90年蒲生氏郷が90万石の領主として黒川の地に入った。黒川は15世紀後半から蘆名氏の城下町として発展してきていたが,氏郷は城と城下の本格的経営にのりだし,外郭を新設,郭内も整備,侍屋敷と町屋敷を画然と区別,郷里近江国蒲生郡若松の森にちなんで,この地を若松と改めた。98年(慶長3)120万石で入部した上杉景勝は,関ヶ原の戦で石田三成と呼応したために減封されて米沢へ移され,そのあと再び蒲生氏が60万石で入封したが,忠郷に嗣子なく封を収められた。1627年(寛永4)伊予国松山より入部した加藤嘉明は40万石,その子明成のとき城の大修築が行われた。大土木工事による支出の増大を補うための年貢増徴に加え,農村を襲った寛永の大飢饉により農民の逃散が相つぎ,家臣堀主水との軋轢(あつれき)(会津騒動)もあり,43年明成は封を返還した。代わって徳川家光の異母弟保科正之が最上より入部,保科氏は95年(元禄8)松平の姓と葵の紋を許され,幕末まで家門大名としてこの地を支配した。本領23万石のほかに,南山あるいは越後国において預地の変遷がみられた。正之は藩政の整備に努力,地下仕置条々を出し郷村よりの収納方を定め,特産物である漆・蠟は前代にひきつづき専売制をとった。米価を安定させるための買米制・常平法,農民・町人救済のための社倉制も行われた。寛文・延宝期には小農民の自立も進み,村役人層の恣意的な農民支配は否定され,城下町若松は領内交通・商品流通の中心地として位置づけられた。しかし元禄ころより藩財政の窮乏は深刻となり,強められた年貢収奪は農民を苦しめ,1749年(寛延2)には全領をおおう大一揆がおこった。藩政の建直しを迫られた藩は,87年(天明7)から改革に着手,手余地の耕作人確保,漆器・酒造などの産業奨励,軍制・学制改革等を行った。藩校日新館はこの時代につくられている。だが改革の結果一時安定した藩財政も,1808年(文化5)の蝦夷地守備,つづく相模湾防備の負担と,天保大飢饉により再び悪化,天保期藩政改革が行われることになった。倹約令,物価引下令が出され,株仲間の解散と再興も行われた。美濃国高須から養子として迎えられていた松平容保(かたもり)は,52年(嘉永5)襲封,62年(文久2)には,幕府の強い要請により京都守護職に就任,幕末の困難な政局にあたった。このおり役料として5万石加増,64年(元治1)軍事総裁職のち再び京都守護職を務める過程で,西南諸藩との対立は決定的となり,68年(明治1)恭順の意を表したがいれられず,戊辰戦争では,奥羽越列藩同盟の中心として徹底抗戦し,敗北した(会津戦争)。若松には軍政がしかれた。69年子容大(かたはる)が家名再興を許され,3万石で陸奥国北部に移住,斗南(となみ)藩を称した。
執筆者:丸井 佳寿子
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あいづはん【会津藩】
江戸時代、陸奥(むつ)国会津郡若松(現、福島県会津若松市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち親藩(しんぱん)。藩校は日新(にっしん)館。1590年(天正(てんしょう)18)に蒲生氏郷(がもううじさと)が黒川城に入り、若松城(別名、鶴ヶ城(つるがじょう))と改めた。関ヶ原の戦いを前後して、1598年(慶長(けいちょう)3)に120万石で上杉景勝(かげかつ)、1601年(慶長6)に60万石で再び蒲生氏、さらに1627年(寛永(かんえい)4)、40万石で加藤嘉明(よしあき)が入封(にゅうほう)した。その子明成(あきなり)は、家臣堀主人(もんど)との抗争(会津騒動)もあって1643年(寛永20)に封を返上。代わって同年、徳川秀忠(ひでただ)の3男保科正之(ほしなまさゆき)が23万石で入封した。正之は農政などに手腕を示して藩体制を確立、以後明治維新まで保科氏9代が続いた。保科氏は正容(まさかた)のときの1696年(元禄9)に松平の姓と葵の紋を許され、御三家に次ぐ御家門として重きをなした。最後の藩主9代の容保(かたもり)は京都守護職となって公武合体を推進。戊辰(ぼしん)戦争では奥羽越(おううえつ)列藩同盟の中心として新政府軍に徹底抗戦したが、1868年(明治1)9月、白虎隊(びゃっこたい)の悲劇を残して降伏。翌年に容保(かたもり)の子が3万石を与えられて陸奥国斗南(となみ)(現、青森県むつ市)に斗南藩を立てた。会津藩領は同年設置の若松県を経て1876年(明治9)に福島県に編入された。斗南藩領は1871年(明治4)に青森県に編入。◇若松藩ともいう。
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会津藩
あいづはん
江戸時代,陸奥国会津地方 (福島県) を領有した藩。鎌倉時代以来この地は蘆名氏の領地であったが,伊達政宗によって滅ぼされ,小田原征伐後は蒲生氏郷,慶長3 (1598) 上杉景勝がこの地を領した。関ヶ原の戦い後,氏郷の子蒲生秀行が再封,寛永4 (1627) 年加藤嘉明がこれに代り,40万石を領したが,その子明成のとき会津騒動が起り,同 20年除封され,代って3代将軍徳川家光の弟保科正之が出羽山形より移され,23万石を領した。3代正容 (まさかた) 以後保科氏は代々松平氏を称し,家門として重きをなし幕末に及んだ。江戸城溜間詰。正之は将軍家綱を補佐して幕政に参与する一方,藩政の基礎を固める施政に努め,名君と称せられた。5代容頌 (かたのぶ) は,家老田中玄宰を用いて藩政改革を行い,殖産興業をはかり,藩校日新館を起し,軍制を改めた。9代容保 (かたもり) は,文久2 (1862) 年,京都守護職となり,一橋慶喜とともに公武合体を推進した。文久三年八月十八日の政変では尊攘派と抗争し,元治1 (64) 年には禁門の変で長州軍と抗戦した。鳥羽・伏見の戦いに敗れてのちは奥羽越列藩同盟の中心となり会津戦争を起し,若松の鶴ヶ城にこもって敗北,子容大 (かたはる) は明治1 (68) 年陸奥斗南 (となみ) 藩3万石に減封され,廃藩。
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会津藩
あいづはん
陸奥国若松(現,福島県会津若松市)を城地とする家門大藩。近世初頭は蒲生氏,ついで上杉景勝の領地だったが,のち蒲生・加藤両氏の支配をへて,1643年(寛永20)保科正之が出羽国山形から入封。以後9代にわたる(1696年以後は松平姓)。藩領は,陸奥国会津・耶麻・大沼・河沼・安積5郡と,越後国蒲原郡で23万石。正之は家訓十五箇条を制定するなど藩政の確立につとめ,凶作対策の社倉制や,米価安定を目的とした常平法を実施した。天明の飢饉後の藩制改革では農村の復興がはかられるとともに,藩校日新館の建築,「会津家世実紀」の編纂などが行われた。会津蝋は,専売品として著名。詰席は帝鑑間または溜間。9代藩主容保(かたもり)は,京都守護職などを勤め,幕末の幕政を支えた。1864年(元治元)5万石加増。戊辰戦争では,奥羽越列藩同盟の中心として官軍と戦った。戦後,領地は没収され,民政局をへて若松県となる。会津松平家は69年(明治2)同国斗南(となみ)藩として復興。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
会津藩
あいづはん
近世,陸奥岩代(福島県)会津地方を領した藩
中世葦名 (あしな) 氏の支配についで,伊達 (だて) ・蒲生 (がもう) ・上杉,再び蒲生・加藤氏が領し,1643年保科正之 (ほしなまさゆき) が藩主となり,会津松平藩の祖となった。石高23万石。元禄(1688〜1704)以降藩財政が窮迫し,寛政(1789〜1801)のころ蠟 (ろう) ・漆などの専売制を強化して藩政改革を行う。9代松平容保 (かたもり) は京都守護職となり佐幕派の中心として活躍。維新には新政府軍の征討をうけ(戊辰 (ぼしん) 戦争),抗戦するがのち降伏した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
会津藩
現在の会津若松市[あいづわかまつし](福島県)を中心とした地域。幕末の藩主松平容保[まつだいらかたもり]は京都の警備を担当する京都守護職[きょうとしゅごしょく]をつとめ、公武合体[こうぶがったい]の意見をとって長州藩とは対立しました。戊辰戦争[ぼしんせんそう]では会津藩は薩摩・長州藩中心の新政府軍と戦いました。
出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報
会津藩
陸奥国、若松(現:福島県会津若松市)を本拠地とした藩。蒲生氏郷(がもううじさと)、上杉景勝などが入封。会津騒動ののち、3代将軍徳川家光の異母弟の保科正之が入封してからは、保科(松平)氏が9代にわたり藩主をつとめた。幕末には奥羽越列藩同盟の中心。戊辰戦争における白虎隊の悲劇で知られる。
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世界大百科事典(旧版)内の会津藩の言及
【新編会津風土記】より
…預地も含めた会津藩域に関する地誌。編集は1803年(享和3)に始まり,藩主松平容衆の09年(文化6)の序がある。…
【藩政改革】より
…だから,大名を補佐する執政に恵まれるとき,藩政の再構築を目ざす藩政改革がみられることになる。この典型としては,肥後熊本藩54万石を受け継いだ第6代[細川重賢](しげかた)と家老[堀勝名]の関係,陸奥会津藩28万石の第5代松平容頌(かたのぶ)と家老田中玄宰との関係,そして,出羽米沢藩15万石の第10代[上杉治憲](はるのり)(鷹山)と改革派を代表する竹俣当綱(たけのまたまさつな)との関係をあげることができよう。 上杉治憲が名君の典型であったことはよく知られているが,彼は日向国高鍋藩主秋月氏の次男として生まれ,部屋住上がりの辛酸をなめていた。…
【三谷三九郎】より
…米沢藩では三谷に禄高700石の待遇を与え,金融面だけでなく上杉鷹山(ようざん)の殖産興業政策に深くかかわり,蠟,青苧(あおそ),絹織物の一手販売まで行わせていた。会津藩でも天明・寛政(1781‐1801)の改革は三谷だけの資金調達で実施されており,1800年(寛政12)には藩の三谷からの借金は10万8000両に及んだという。江戸での三谷は寛政改革のさいの勘定所御用達となり,三貨の調節や公金の貸付けなどに従事した。…
【陸奥国】より
…この戦後の大名配置で陸奥にはじめて譜代藩が設けられ以後南陸奥に相ついで中小諸藩の設置をみた。まず,再封蒲生氏の[会津藩]万石は2代で加藤氏40万石に交替し,加藤氏も2代で保科(松平)氏23万石に替わり幕末に及んだ。この会津藩の変遷で削減された領地に[白河藩](丹羽氏),三春藩(加藤氏),[二本松藩](松下氏)が生まれ,南会津の南山地方は幕府領となり会津藩の領地となった。…
※「会津藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」