中川 八郎
ナカガワ ハチロウ
明治・大正期の洋画家
- 生年
- 明治10(1877)年10月
- 没年
- 大正11(1922)年8月3日
- 出生地
- 愛媛県喜多郡天神村
- 経歴
- 明治19年大阪に出て松原三五郎に洋画を学び、29年上京し小山正太郎の不同舎で学んだ。32年吉田博と共に渡米。のち渡米した満谷国四郎、鹿子木孟郎らと共にヨーロッパを巡遊し、34年帰国。同年太平洋画会を創立、翌年の第1回展から太平洋画会展に出品。35年から39年の間、再び米国を経由してヨーロッパに赴く。40年東京府勧業博で3等賞、同年の第1回文展でも3等賞となる。以後文展では第2回、第3回展で3等賞、第4回展で2等賞を受賞、44年第5回展では早くも審査員となり、大正10年まで務めた。また帝展でも審査員を務めた。代表作に「北国の冬」「瀬戸内海」「夏の朝」「杏花の村」など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
中川八郎 なかがわ-はちろう
1877-1922 明治-大正時代の洋画家。
明治10年12月2日生まれ。松原三五郎,小山正太郎にまなぶ。風景画を得意とし,文展と帝展の審査員をつとめた。明治34年太平洋画会の創立に参加。大正11年8月3日死去。46歳。愛媛県出身。作品に「北国の冬」「高原の花」「夏の朝」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
世界大百科事典(旧版)内の中川八郎の言及
【明治・大正時代美術】より
…これらの中では,《天平の面影》(1902)や《蝶》(1904)を描いた[藤島武二]と,彼の影響を受けて《海の幸》(1904)や《わだつみのいろこの宮》(1907)のように詩情豊かな浪漫的な作風をうち出した[青木繁]が傑出している。 明治美術会にも,欧米に学んだ中村不折,満谷(みつたに)国四郎(1874‐1936),吉田博(1876‐1950),鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)(1874‐1941),中川八郎(1877‐1922),河合新蔵(1867‐1936),丸山晩霞(1867‐1942),大下藤次郎などが現れて,1901年太平洋画会を興し,白馬会に対抗した。しかし07年文部省美術展覧会(文展)が設立されると,黒田のアカデミックな写実に印象派の色彩を加えた明るい外光主義の画風,すなわち美術学校と白馬会の画風が,日本のアカデミズムとして洋画界を支配するようになっていった。…
※「中川八郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」