ヨーロッパ(読み)よーろっぱ(英語表記)Europe

翻訳|Europe

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヨーロッパ」の意味・わかりやすい解説

ヨーロッパ
よーろっぱ
Europe

ヨーロッパ理解の鍵―キリスト教


 ヨーロッパとは何かを考えるとき、とりわけ私たち日本人にとって理解しがたく、かつもっとも重要な問題であるのは、ヨーロッパがキリスト教世界であるということである。一神教としてのキリスト教は、なぜヨーロッパにおいて支配的なのか。そしてまた、キリスト教はアジア諸地域においても広く信仰されているにもかかわらず、なぜわが国では約100万人すなわち人口の1%以下にとどまっているのか。私たちの前に大きな壁のごとく立ちはだかる、この難問をまず乗り越えなければ、ヨーロッパはつねに私たちには遠い。それは同時に、ヨーロッパ人にとっても日本が心理的・文化的に遠いことを意味する。

[木村尚三郎]

結び合いを求める心

ヨーロッパの主要都市を訪れるとき、いやでも目につく町いちばんの大きな建物は、カテドラル(仏)、カスィードラル(英)、ドーム(独)、ドゥオーモ(伊)とよばれる大聖堂〔大寺院、大伽藍(だいがらん)〕である。大聖堂は司教座の置かれている教会堂であり、12世紀を中心とする前後200年、すなわち11世紀なかばから13世紀なかばころの中世盛期に建てられたか、あるいは建てられ始めたものである。なかにはドイツ・ケルン市の大聖堂のように、13世紀から19世紀まで、完成に600年を要したものもある。

 大聖堂を代表とするヨーロッパの数々の教会堂は、人々にとって精神・信仰の砦(とりで)であるばかりではない。ことに大聖堂は、中世なら原則として町の住民すべてを含みうる巨大な石の集会場であり、避難場所であった。それは日曜のミサその他の聖事に使われてきただけではなく、風水害・災禍、そして第二次世界大戦においても空襲を避ける町の避難所であり、野戦病院の場ともなり、そして今日、市民にとってコンサートの演奏会場や絵の展覧会場でもある。

 教会堂の分厚い、そして小さな二重扉を開けて中に入れば、町の騒音はたちまちに消え、そこは外界から隔離された別世界である。夏なおひんやりとし、薄暗く、静寂のみが支配する堅固な石の砦であるからこそ、人と人とは大聖堂をはじめとする教会堂に集い、ここを土地のコミュニティ・センター、コミュニケーション・センターとしてきた。

 わが国でも、山に囲まれた村とか離島の人々がそうであるように、囲まれ、限定された場に置かれるからこそ、人と人はその閉ざされた小世界において心と心を結び合わせ、つなぐ。コミュニケーションもコミュニティも頭文字にコムcomの3文字があるが、これはラテン語のクムcumからきており、英語のウィズ withと同じく「ともに」の意味である。コミュニケーションは普通「交流」と訳されるが、平たくいえば「あなたとともに」という意味での、「つなぎ」である。そして地域での「つなぎ」がコミュニティである。唯一神としてのイエス・キリストとともにあり、そして隣人とともにあることを、ヨーロッパ人はこれまでの約1000年間、切実に求めてきた。

[木村尚三郎]

孤独・不安・緊張のなかに生きるヨーロッパ人

その根底にあるのは、孤独感である。自分は自分、人は人であり、自分がただひとり世界に突き放され、投げ出されているような孤独感。だれも助けてはくれず、いざというときは自分で自分の身を守らねばならない不安感と緊張感。これこそが一神教としてのキリスト教を、ヨーロッパ世界に支えてきた根本原因である。日本でなら、年をとって初めて味わう孤独感と不安感を、1000年もの間、老若男女、職業のいかんを問わず、数多くの人が味わってきたのがヨーロッパ人である。孤独感、不安感、緊張感があるからこそ、愛と信頼が切実に求められる。他方、自己防衛本能が発達して戦争とか紛争が数限りなく発生し、生きるための大義名分がつねに掲げられる。そして、現実の社会生活においては、たとえ配偶者との間でも「心八分目」の生き方が強いられ、互いに心のたけをぶちまけるということはない。

 だからこそ黙って心と心が通じ合うという期待はなく、「対話(ダイアローグ)」がつねに不可欠である。しかしながら「対話」によって、相互に折り合え、協調しうる場合と同じ程度に、対立紛争が表面化、深化する場合もあり、社会秩序維持のために、そしてまたひとりひとりが心の平和を得るために、最終的には相互にだれもが認め合える唯一神の存在が、社会的な不安・緊張感・孤独感そのもののなかから要請されることになる。

[木村尚三郎]

キリスト教を支えた人々
古代

歴史的にいって、そのような孤独感・不安感・緊張感を、初期キリスト教時代に痛いほど覚えたのは、古代ローマの奴隷とか女性一般など、人間としての権利を社会的に認められなかった人々であり、彼らがまずキリスト教の担い手であった。今日、ヨーロッパ各地の教会を訪れると、地下にクリプトcryptとよばれる礼拝所、納骨堂があるが、こここそ初期キリスト教徒が、ローマ帝国の弾圧を逃れて、ひそかに集会した場所であった。そして帝政末期に入り、ローマ帝国そのものが瓦解(がかい)の色を濃くするに伴い、孤独な人々は一般市民にまで広がり、キリスト教に数多く入信するようになる。

[木村尚三郎]

中世

中世ヨーロッパにおいてキリスト教を自ら支えた孤独な人たちは、貴族、遠隔地貿易に従事する商人、遍歴職人、巡礼など、そしていうまでもなく聖職者たちであった。農民はこのとき、とくにカテドラルが各地に建てられた11世紀なかばから13世紀なかばにかけては、農業技術の進展とともに大開墾運動が展開され、生産性・穀物収穫量が飛躍的に高まり、今日の農村の原型が形づくられて、隣人との結び合いのなかに生きるようになり、孤独・不安・緊張感からむしろ大きく解放された。

 しかしながら土地の耕作・播種(はしゅ)・収穫など、村ぐるみの共同作業はキリスト教の祭日にあわせて行われ、またキリスト教会は、その先端的な農業技術を、たとえばパリ北郊サン・ドニ大聖堂(中世では修道院)の入口に彫られた12か月の農事暦を通して教え、あるいは教会所領の農耕に農民を従事させることによって実地に教えた。これらの点でキリスト教と農業・農民とは、近代の市民革命に至るまで、きわめて密接な関係にあったことは間違いがない。

 これに対して、その農民・農村が防衛する立場にあった中世ヨーロッパの貴族は孤独であった。彼は部下に対して全責任を負っており、たとえ親友といえども相手が貴族であれば「心八分目」のつきあいしかできなかった。相手もその所領に責任を負っており、いつ自分の領地と相手の領地との経済的・政治的利害が衝突して、心ならずも相手を敵にまわす戦争となるかわからなかったからである。12世紀当時各地にたくさん建てられた封建貴族の城は、カテドラルと違って実戦用に短時日でつくられたために、今日では大半が崩れてその孤影を落日にさらしているが、まさに貴族すなわち「戦う人」の孤独感をみごとな形で象徴している。

[木村尚三郎]

ヨーロッパと日本―その共通性と異質性

西欧封建貴族に匹敵する孤独な「戦う人」は、わが国にもほんのひととき存在した。16世紀戦国時代の武将たちがそうである。当時は、わが国でも大開墾、大規模な新田開発の時代であった。大平野に流れる大河に堤防を築いて川の暴れを防ぎ、その水を水田に利用する導水灌漑(かんがい)技術が発達し、初めて人々が山間部の小平野から関東平野、越後(えちご)平野その他の大平野へと、日本の民族大移動を行ったのが、16世紀戦国時代と17世紀江戸初期である。

 この200年間に、日本の耕地面積・人口とも約3倍に大躍進を遂げている。だれもが未来に大きな希望をもち、だれもが他人を頼まず自力で生き抜き、大発展を遂げようと夢をみ、したがって親兄弟といえども信頼がならず、殺し合いも不思議ではなかった。テレビや小説の主人公に戦国の武将が取り上げられ、日本人離れした強烈な個性を発揮するゆえんである。

 12世紀西欧封建貴族の城も、姫路城、松本城その他、16世紀日本における戦国大名の城も、ともに平地の交通要衝地に築造された平城(ひらじろ)であり、城主が常住して城一円の地域における農村の治安を効果的に維持し、対外的軍事防衛にあたる、いわば「武装された県庁」であった点で、共通している。そしてこのような地域防衛を任とした城は、世界広しといえども、ほかには存在しない。城といえば、なによりもまず都市城壁をさすのが古代オリエント以来アジアをも含めての常識である。あとは戦いのときだけ立てこもる砦とか、権力者だけを守るインドの王城のたぐいとか、城壁の連なりである中国・万里の長城や、城砦(じょうさい)の連なりである古代ローマのリメスがあるにすぎない。ということは、中世ヨーロッパと近世日本だけが、それぞれ堅固な城によって守るに値する、緻密(ちみつ)な農業・農村社会を地域ごとに形づくったということである。そしてまたヨーロッパと日本だけが、農業社会における政治システムとしての封建制を発達させている。その意味でヨーロッパと日本は、互いに地球のほぼ反対側に位置しながら、世界史上奇しくも基本的な共通性をもっているということができる。

 1549年(天文18)フランシスコ・ザビエルがキリスト教(カトリック教会)を鹿児島にもたらして以来、キリシタンは16世紀後半に西国を中心として爆発的に広まり、人口1000万のうち70万人ともいわれる信者を数えた。現在は人口の1%足らずにしかすぎないわが国のキリスト教徒も、当時は人口の数パーセントに達していたことになる。それは、戦国時代の殺し合いのなかで、史上このときだけヨーロッパに似た不安と緊張、だれをも信用できない孤独感が人々を支配したからであった。

 しかしながらそれから後の歩みは、同じく緻密な農業社会を形づくったとはいえ、日本とヨーロッパとでは大いに異なることになる。

 16、17世紀に山間部から大平野へと民族大移動を遂げた日本人は、そこで初めて海を目のあたりにし、日本が海に囲まれた島国であることを実感した。英仏間のドーバー海峡とは異なり、津軽海峡も朝鮮海峡も泳いで渡ることは不可能である。ここから、内乱や犯罪に対する大きな抑止力が働くこととなり、各地の政治権力者の、中央(江戸)に対する政治的な自己調整が積極的に図られて、日本は17世紀以降、江戸幕府の成立とともに国家の統一が実現され、海を城壁と考え、海によって日本を閉ざす鎖国的なメンタリティとともに今日に至っている。それとともに、日本人の政治感覚、孤独感、そして一神教的宗教感情もまた、ヨーロッパと比べて大きく後退することとなった。キリシタンは弾圧され、よくも悪くも自己主張をせず、大勢に従い我慢して生きる、いわば「日本我慢列島」ができあがったのである。

 このへんの事情は、同じく島国であるイギリスとよく似ている。イギリスもまた島国であるがために、すでに12世紀なかば、プランタジネット王朝初代のヘンリー2世以来、国王による中央集権化、国家の統一がいち早く実現された。大陸ヨーロッパに対してつねに身構え、防衛する姿勢をとるために、ロンドンを中心として国民が一致結束しようとするからであり、だれもがロンドンに目を向け、ロンドンを通して大陸ヨーロッパに対処しようとする中央志向のメンタリティをもつからである。

[木村尚三郎]

ヨーロッパにおける「地方」の意義

中央志向のイギリス

イギリスの国制は議会制による地方自治を特色としており、大陸の官僚制による中央集権と際だった対照をなしている。それはイギリスの場合、人々がつねに大陸を意識しつつ中央(ロンドン)を見つめ、地方が中央とともに生きようとするからであり、地方に広範な自治を認めても、それが国益に反し、国がばらばらになるおそれが少ないということである。すなわち中央志向のメンタリティがあるからこそ、地方自治体制が可能となる。

[木村尚三郎]

地方志向の大陸諸国

これに対してヨーロッパ大陸諸国では、地続きであるからこそ人々は各地方ごとに安心のできる生活集団の単位をできるだけ小さく限定しようとし、地方志向のメンタリティが中世以来今日まで支配的である。したがってフランスのイル・ド・フランス、ブルゴーニュシャンパーニュ、プロバンス、ドイツのザクセン、バイエルンシュワーベンといった「地方」が12世紀ごろ形成されてから、これらが19世紀に近代国民国家に統合されるまで、数百年の時間を要している。近代国民国家の前段階として16、17世紀に形づくられた、絶対主義国家のうちに諸地方が組み込まれるのにも、500年ほどを要している。

 大陸諸国はこのような地方志向のメンタリティを強固に保持し続けるからこそ、国家のまとまりとしては官僚制の整備による中央集権体制をとらざるをえない。英米系の国々における役人よりも、大陸諸国の官僚のほうが一般に優秀なゆえんがここにある。フランス革命の結果、各地の市町村役場や警察に三色旗が翻り、今日に至っているのも、パリ中央政府が各地を抑え込んだしるしとしてであった。

 そして今日、国家それ自体が1992年のEC統合とともに、ヨーロッパのなかに有機的に組み込まれ、国家それ自体の独立性・主権性を大きく後退せざるをえない状況下で、ヨーロッパの歴史的・文化的な単位としての地方は、ふたたび大きく浮上し、クローズアップされつつある。すなわち、現実に観光・料理・国土開発などの単位として生き続ける地方は、ヨーロッパ人それぞれにとって実感のある「くに」であり、生きる自信と誇りの根拠である。

[木村尚三郎]

土に匂(にお)いのする文化

地方と中央との間に、文化的な落差はない。これがヨーロッパの特色である。どの地方もそれぞれに美しく、おいしく、そして歴史がある。フランスに、フランス料理は存在しない。あるのは、ブルゴーニュ地方のエスカルゴ料理とか、プロバンス地方のニース風サラダといった、地方料理だけである。これら地方料理の総称が、フランス料理であるにすぎない。

 フランス中東部のブルゴーニュ地方は古くからワインの名産地として知られるが、そのブドウの葉を食べる害虫がエスカルゴすなわちカタツムリである。18世紀にこのカタツムリが大発生し、人々がその対策に苦慮したすえに生まれたのが、「食うにしかず」という結論であり、そこからエスカルゴ料理が世に一般化することとなった。まことにフランス料理に代表されるヨーロッパ諸地方の料理は、土の匂いに満ちている。そして、その土の匂いこそがまた、文化の本義でもある。すなわち、日本語の文化は、「耕作」を意味するカルチャー(英)、キュルチュール(仏)、クルトゥーア(独)の訳語である。耕作の仕方は土地ごとに異なり、したがって作物・食・酒のあり方も土地ごとに違う。そのような、土地ごとに異なる人間の営み、たとえば食と酒、祭り、芸能、物産、言語、風俗・習慣などが文化の内容を形づくる。したがって文化はすべて地方文化であり、中央文化なるものは存在しない。

 その地方文化の個性が、町並みとか教会堂、そして食と酒などにおいてそれぞれに輝いているのがヨーロッパである。各地に、どんな片田舎(かたいなか)にも、しゃれたこぎれいなレストランがあり、味とか室内装飾の点で、大都市のレストランにひけをとらない。そして土曜とか日曜になると、遠くからでも、成人した子供たちが親元に帰り、着飾ってレストランに繰り出す。

 日本と違い地続きのヨーロッパでは、国家の範囲もあり方も時とともに変わるから血縁関係だけが頼りであり、フランスでは大学生から35歳ころまでは、毎週、土日曜には親元に帰り、親兄弟と出会っている。たとえ100キロメートル以上親元から離れていても、である。35歳を過ぎても可能な限り親元に帰っており、兄弟姉妹が年に一、二度、正月やお盆の季節に出会うだけの日本と違って、親兄弟、親類縁者の結び合いはきわめて強い。

 春の復活祭(日曜日)のときなどは、一つの家にそれこそおじ、おば、いとこ、はとこまで集まって手料理をわいわいと楽しみ、あるいはレストランに打ちそろって出かけて一日を集い楽しみ、翌日の月曜日、また自分の家に帰ってゆく。したがって列車は超満員であり、自動車は各地で渋滞となる。各地のレストランは、たとえ親兄弟が離れ離れに暮らしていても毎週のように集う血縁の強い絆(きずな)と、そして観光客によって支えられている。ちなみに、日本を訪れる外国人観光客は年間200万人強であるが、フランスは約3000万人、スペイン、イタリアは約4000万人の外国人観光客を毎年受け入れている。美しい自然と歴史、そしてどの土地にもおいしい地方料理と酒、安くておいしくて人情のあるレストランがあり、土の匂いに満ちた文化の魅力がある、というのがその理由であろう。技術文明が成熟し、本当に買いたい工業新製品がほとんどみいだせない今日、だれもが旅に、食に、地方文化に楽しさと夢、驚き、喜びの実感を求めるようになってきた。

[木村尚三郎]

ドイツの地方志向

先ほど、地方志向のメンタリティをもつ国(フランス)は中央集権体制をとり、中央志向のメンタリティをもつ国(イギリス)は地方自治の体制をとると記したが、ドイツは地方志向がさらに強く、地方(ラント)が実質においても意識においても国としての意味をもっている。それは、森があまりにも深く、山があまりにも高くて、長い間生活集団を分断してきたためということができよう。

 すなわち、ドイツ連邦共和国は16のラント(州)から成り立っているが、一つ一つのラントがそれぞれ独自の成文憲法および議会、政府、首相と大臣をもち、独自の司法・立法・行政権、教育・文化事業、警察の権限を有している。さらに連邦政府の同意の下に、国際条約を締結することもできる。文部省もラントごとなら、国立大学もラントごとの州立大学である。1000年に及ぶ歴史のうちでドイツが中央集権国家であったのは、ナチスが政権をとり、ラントの独立を否定した1933年から1945年までの、10年余のことにすぎない。

 ドイツには、中世〔962年のオットー1世戴冠(たいかん)〕より19世紀初頭(1806年)まで神聖ローマ帝国が存在した。しかしながら13世紀なかばころよりラントごとの集権化、帝国の事実上の瓦解(がかい)が始まり、15世紀にはそれぞれ主権をもつラントや都市の数が300を数えるに至っている。神聖ローマ帝国はしたがって、これらたくさんの地方主権による、いわばモザイク国家であったといっていい。1871年にはラントのうち最強だったプロイセンの武力により、ドイツは事実上史上初めて統一され、ドイツ帝国が成立する。しかしながら地方の分立状態はその後今日に至るも依然として克服されず、ナチス集権体制の一時期を経て、戦後東西ドイツに分割され異なる社会体制のもとでの生活を余儀なくされたが、社会主義体制の崩壊に伴い1990年10月に東西ドイツの統一を達成した。今後は、東西の経済的、文化的な格差をいかに克服していくかが、ドイツ連邦共和国にとって最大の課題である。

[木村尚三郎]

イタリアの地方分立

一方、イタリアは、ドイツと同じく19世紀後半の1861年に統一され、同じく州の自立性が高い。同じくそれぞれの州がイタリア人にとっては国であり、自分はイタリア人だという前に、トスカナの生まれとか、ベネト(ベネチア)の人間だとか、シチリア人であるという言い方をする。しかしながら、背後の事情はドイツ人とは対照的である。

 すなわち、イタリア半島が臨む地中海は、古代以来商業・コミュニケーションの場として都市・商品経済が発達した。イタリアも中世以来ジェノバ、ベネチア、フィレンツェその他の都市が繁栄して並び立ち、ことに14、15世紀のルネサンス期には、フィレンツェのメディチ家、ミラノのビスコンティ家、ベローナのスカラ家、フェッラーラのエステ家その他、各地の有力都市貴族が金融や仲継貿易、商工業などによって巨額の富を得、周辺の農村地帯を支配して、分立・競合的に都市国家を形づくった。

[木村尚三郎]

国家としてまとまる英仏

イタリアの地方分立は、したがって、もともと各地の都市の経済力と自立性が強すぎてのことであるが、このような地方分立が今日なおヨーロッパの現実であるなかで、フランスとイギリスだけが実質的な国家のまとまりを有する、例外的な国家である。2国だけが中世以来国家統一への道を歩み続けて今日に至っており、新聞もイギリスの『タイムズ』、フランスの『ル・モンド』や『フィガロ』のような全国紙をもっているのは英仏両国だけで、ほかの国々には地方紙しか存在しない。アメリカ合衆国は、もともとイギリスとは緊密な関係にあるが、フランスを説得できなければ、ヨーロッパ大陸諸国全体を説得することができない。ヨーロッパ大陸においてフランスが中世以来農学的にもっとも豊かであるとともに、国家的なまとまりを有する唯一の国であり、その意味でヨーロッパ大陸の中心をなしているからである。パリはフランスの首都であるとともに、ヨーロッパの首都でもある。

 このフランスないしはヨーロッパ大陸に相対するイギリス人は、自分たちのことを「ブリティッシュ」といい、「ユーロピアンズ」(ヨーロッパ人)とはいわない。「ユーロピアンズ」は、大陸ヨーロッパの人々をさすことばである。それはちょうど、私たちが自分のことを「日本人」といって「アジア人」とはいわないのと同じであり、大陸から一線を画そうとする、島国としての意識が強く働いている。

 イギリスのサッチャー元首相は、「われわれヨーロッパ人」という表現を好んで使うが、それは決して一般的ではない。1992年のEC市場統合、そして長い間の懸案であった英仏海峡トンネルの実現をにらみ、それとともにイギリスがしだいにヨーロッパ大陸の半島としての性格を強め、アメリカとの距離がいくぶんなりとも広がることを見越しての、いわば政治的な表現ということができよう。

 ヨーロッパ各地における地方の文化的・社会的・歴史的な独自性は、19世紀近代国家の成立とともに、多かれ少なかれ弱められ、あるいは国家の下に覆い隠された。たとえば、フランス北西端のブルトン語、南のプロバンス語、東のアルザス語など地方独特のことばは、19世紀以降フランス政府によって無視ないし否定された。赤ん坊のとき以来母親から習い覚えたブルトン語を小学校で使うことは、禁止された。ブルトン語を使うと、先生から木靴を首にぶら下げられ、あざけられ、罰せられた。それが悲しかったと涙を流す老婆がフランスにいたのも、1960年代ころまでであろうか。フランス中どこでもきれいな標準語が話されるようになったのは、戦後ことに1970年代以降のことである。

[木村尚三郎]

浮上する「地方」の意義

ところが戦後、1958年にヨーロッパ経済共同体(EEC)が成立し、その後このEECを含むEC(ヨーロッパ共同体)の拡大・統合、EU(ヨーロッパ連合)成立のなかで、国境ないし国家の枠組みのもつ意味は時とともに低下しつつある。近代国民国家のフィクション性があらわとなるその一方で、中世以来実質的なまとまりを保持する文化・風土の単位として再浮上してきたのが、「地方」である。

 このような「地方」の歴史的・文化的特性を重視し、保持しようとする地方主義(リージョナリズム、レジオナリスム)の理念は、ヨーロッパ統合化の、そして低成長経済下の今日においてこそ、積極的に支持され、謳(うた)い上げられる。それとともに、ヨーロッパの自然・文化・歴史などを、フランス、ドイツ、イギリスといった国単位で考えるのではなく、地方単位で、あるいは似通った地方の連合体としての西ヨーロッパ(北フランス・西ドイツ)、南ヨーロッパ(イタリア・スペイン・ポルトガル・南フランス)、北ヨーロッパ(スカンジナビア諸国)、そして東ヨーロッパ(東欧諸国)といった枠組みで取り上げる視点が、より確実・有効なものとして優勢になりつつある。

 いわゆる重厚長大型の技術が低迷し、技術文明の成熟が実感される今日、都市にあって土の匂いを求め、地方文化に生きる証(あかし)と根拠、そして幸せと喜びをみいだそうとするのは、現代人にとっての切なる願いである。その意味で地方主義は、これからいよいよ現実的な理念として追求されることになろう。世界のだれもが土地ごとの文化に幸せと喜びをみいだそうとしており、その地方的なものこそ国際的であり、世界が求める価値を備えている。

[木村尚三郎]

現代日本と地方主義

先ほど述べた地方志向型のメンタリティがフランスのような中央集権体制を生み、中央志向のメンタリティがイギリス型の地方自治を形づくるとすれば、すでに17世紀の江戸幕藩体制成立以来江戸・東京に対する中央志向のメンタリティをもつ日本は、イギリス型の地方自治体制がもっとも適合的であるといえるのかもしれない。しかし明治に入ってからの日本は、欧米先進列強に対する大きな恐怖・緊張感から、官僚制に基づく中央集権体制によって、わずか20年の間に近代国民国家の体制を曲がりなりにも整えることができた。こうして近代日本は、中央志向のメンタリティに中央集権体制が加わることにより、異常なまでに能率的な挙国一致体制が形づくられ、今日に至っている。地方文化の重視・育成と地方自治拡大の観点からすれば、現代日本こそもっとも地方主義の理念が強く求められるべき国であるといえよう。

[木村尚三郎]

エピローグ―明日に生きるヨーロッパ

ヨーロッパからユーラシアへ

キリスト教から始まって、ヨーロッパにおける地方の問題に論点が及んだが、14、15世紀以降農業技術が成熟し、開墾運動もストップして、飢えとか疫病(ペスト)がヨーロッパを襲ったとき、各地方がやむなく空間感覚を発揮して、国王ないし国家を認め、そのもとで地方を生かそうとしたのが、17、18世紀に至る近代化の過程であった。その結果19世紀に近代国民国家が成立するが、今度は強大な旧ソ連やアメリカ合衆国を前にして、やむなく新たな空間感覚を働かせてヨーロッパそのものを認め、そのなかで自国を生かそうとしたのが、第二次世界大戦後のEC(ヨーロッパ共同体)の形成と発展、そしてマーストリヒト条約(1991年12月)の結果としてのEU(ヨーロッパ連合)の発足(1993年11月1日)である。

 困ったときは嫌な相手とでも手を結ぶ現実感覚が、ヨーロッパのとりえである。その結果、過去1000年間戦い合ってきたドイツとフランスは、いまヨーロッパのなかでもっとも仲のよい国どうしとなり、軍事演習も合同で行われるに至っている。そしてヨーロッパの100都市を結んでその日のうちに目的地に着く、ヨーロッパ国際特急(トランス・ユーロップ・エクスプレス、TEE)は1957年に発足し、時とともにそのネットワークを拡充している。

 さらに1973年の第一次オイル・ショック以降は、大陸に石油が出ないという現実から、ヨーロッパを生かすために、今度はユーラシア大陸それ自体を認めようとしだしている。1980年と1984年の2回にわたって、当時のソ連から天然ガスの供給を受けるために、5000キロに及ぶパイプラインを敷設したのはその証左であった。

 パリのリヨン駅からは毎日モスクワ行きの列車が発車しており、モスクワからもまた同様である。ヨーロッパ内部にもはや戦争はありえないという戦後の確信は、ヨーロッパを戦前から分かつもっとも大きな指標であるが、同様な思いはいまや、東欧・ロシア圏に対しても醸成されようとしているといえよう。ユーラシア大陸にはヨーロッパ、ロシアそして中国の3本の柱が立ち上がりつつあり、ユーラシアの東端に位置しながらアメリカとの強い結び付きの下にある日本に対しても、いまヨーロッパは技術・経済・文化などの提携・協力関係の拡大を積極的に働きかけだしている。

[木村尚三郎]

現代ヨーロッパ社会とキリスト教

もともとヨーロッパ人は、互いに目の色、髪の毛の色が違い、いま同じことを考えたり感じたりしているはずはないとの思い込みに生きてきた。赤ん坊が生まれるとき、男の子か女の子かよりも関心があるのは、何色の髪の毛の子だろうかということである。互いに気心の知れない存在であるからこそ、一方では孤独感が強く、自己防衛の本能が発達するが、他方ではそれだけ対話(ダイアローグ)とかパーティーによる、人と人との結び合い、つなぎが重視される。

 キリスト教は一神教であり、だれもが唯一神を信じ合うことによって、気心の知れぬ人と人とが結ばれ合い、社会的なまとまりが形づくられてきた。自己防衛の心は往々にして他との摩擦、紛争を生み出すが、相互不信のうちにあって信頼を、憎しみのうちに愛を、闇(やみ)のうちに光を求め続けてきたのが、キリスト教である。ことに16、17世紀にヨーロッパが雨と雪と氷に覆われ、史上最低・最悪の悪天候にみまわれたとき、だれもが救いを心底求め、そのなかからカトリックとプロテスタントの両派が生まれるとともに、いずれもが内心の宗教として、今日のキリスト教の出発点となった。

 ヨーロッパ各地の町や村は、自己防衛的、自己凝縮的に小さくまとまり、それぞれ文化的な個性を輝かせながら点在しているが、その中央に位置する町いちばん、村いちばんの大建築物が教会堂である。人々は日曜ミサに教会堂に集い、パンとワインを分かち合ってキリストとの、そして自分たちどうしの結び合い、つなぎを感じとってきた。互いに楽しく食べ合い、飲み合うことのたいせつさは、ことにカトリックの世界で重視されてきたが、低成長経済が本格化し、だれもが寂しい孤独感の個人となりつつある今日、ふたたび強調されるに至っている。

 しかしながらその一方で、1987年7月1日以降のEC市場統合、1993年11月からのEU正式発足、さらに2004年5月1日からの25か国による拡大EU(フランス、ドイツ、イギリス、アイルランド、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スペイン、ポルトガル、デンマーク、ギリシア、オーストリア、スウェーデン、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、スロベニア、マルタ、キプロス)により、互いに違いを認め合いながら共存するという形で、人口約4億5000万人の巨大な、世界最大の大陸型国家がいま浮上しようとしている。EUは世界の国内総生産の28.8%(1994年)を占め、アメリカ(人口2億6550万人)の26.1%を優にしのいで世界一である(日本は人口1億2625万人、世界の国内総生産の18.0%)。そのような空間感覚の発達とともに、「一つのヨーロッパ」がいよいよ強く実感される。その分、ヨーロッパ人の孤独感と自己防衛本能、これに支えられてきたキリスト教のエネルギーは、すこしずつ後退しだしているといえるのかもしれない。

[木村尚三郎]

『デレック・ヒーター著、田中俊郎監訳『統一ヨーロッパへの道――シャルルマーニュからEC統合へ』(1994・岩波書店)』『坂井栄八郎、保坂一夫著『ヨーロッパ=ドイツへの道』(1996・東京大学出版会)』『マリオ・モンティ著『モンティ報告 EU単一市場とヨーロッパの将来』(1998・東洋経済新報社)』『フレデリック・ドリューシュ編、木村尚三郎監、花上克己訳『ヨーロッパの歴史――欧州共通教科書』(1998・東京書籍)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヨーロッパ」の意味・わかりやすい解説

ヨーロッパ
Europe

ユーラシア大陸の西に突き出た半島のような陸地で,北は北極海,西は大西洋,南は地中海によってかぎられる。東には明確な地形上の境界線はなく,古くはウラル山脈からエンバ川を経てカスピ海に達する線より西のヨーロッパロシアを含めた地域をヨーロッパと呼んでいたが,近年の国際連合統計などでは,かつてのソビエト連邦領を除く場合が多い。またボスポラス海峡以西のトルコ領は地形上はヨーロッパに含まれるが,一般の統計ではアジアとして扱われる。こうした区分に基づく国連統計では,ヨーロッパの総面積は 485万2000km2,総人口は約 4億9800万(1990推計)。
グレートブリテン島,アイルランド島,アイスランド島など多くの島々を含むこの地域に,イギリス,フランス,ドイツ,イタリア,スイス,スペイン,ポルトガル,ベルギー,オランダ,ルクセンブルク,オーストリア,ギリシア,アイルランド,デンマーク,フィンランド,スウェーデン,ノルウェー,アイスランド,アンドラ,モナコ,サンマリノ,バチカン市国,リヒテンシュタイン,マルタ,セルビア,モンテネグロ,コソボ,ボスニア・ヘルツェゴビナ,スロベニア,クロアチア,北マケドニア,ポーランド,チェコ,スロバキア,ハンガリー,ルーマニア,ブルガリア,アルバニア,リトアニア,ラトビア,エストニアの大小 41ヵ国がある。
北緯約 35°~70°と高緯度に位置するが,大西洋を流れる暖流のメキシコ湾流が西岸を洗い,洋上を吹く風が暖かい空気と適度の湿気を運んでくるため,気候は冬季温暖で,北西部では北極圏内まで定住生活が営まれている。大陸中央部には東西にヨーロッパ大平原が広がり,その北側には古期造山帯のスカンジナビア山脈(→スカンジナビア半島)がイギリス北部のスコットランドまで続いている。大平原の南部にはアルデンヌボージュ山地シュワルツワルトベーマーワルト(ボヘミアの森)などの比較的低い山塊があり,いくつかの盆地を形成。さらに南にはネバダ山脈ピレネー山脈アルプスカルパート山脈など,新期造山帯に属する高峻な山々が連なり,地中海沿岸地域との間を隔てている。この南部は火山,温泉が多く,中部,北部に比べて地殻は不安定である。ヨーロッパは一般に西ヨーロッパ東ヨーロッパに大きく分けられる。またこの西ヨーロッパを,北ヨーロッパ南ヨーロッパ,狭義の西ヨーロッパの 3地域に分けることもある。
歴史的にみると,初めギリシア,ローマを中心とする南ヨーロッパが先進地域として指導的地位にあり,大航海時代はスペイン,ポルトガルとやはり南の勢力が強大であった。その後産業革命がもたらした工業化によって狭義の西ヨーロッパが世界の政治,経済,文化の中心となった。しかし,第1次世界大戦および第2次世界大戦を経て,アメリカ合衆国とソ連の強大化,ヨーロッパ各国が経営していた旧植民地の相次ぐ独立などの情勢のなかで,西ヨーロッパの世界支配は崩壊。今日,西ヨーロッパはヨーロッパ連合 EUに力を結集し,社会主義体制を放棄した東ヨーロッパ諸国を吸収する方向に進み,将来の「ヨーロッパ連邦」への道を模索している。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報