満谷国四郎(読み)ミツタニクニシロウ

デジタル大辞泉 「満谷国四郎」の意味・読み・例文・類語

みつたに‐くにしろう〔‐くにシラウ〕【満谷国四郎】

[1874~1936]洋画家岡山の生まれ。太平洋画会設立参加。写実的な画風から出発し、晩年には平明な色面構成の装飾的画風を確立した。

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精選版 日本国語大辞典 「満谷国四郎」の意味・読み・例文・類語

みつたに‐くにしろう【満谷国四郎】

  1. 洋画家。岡山県出身。はじめ小山正太郎に学んだ後、渡欧帰国後、太平洋画会の設立に参画。再渡欧後、初期の暗い写実的作風から近代的造形に作風を転じ、後年には装飾的な様式化に独自の画境を示した。代表作裸婦」「早春の庭」「砂丘の家」。明治七~昭和一一年(一八七四‐一九三六

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百科事典マイペディア 「満谷国四郎」の意味・わかりやすい解説

満谷国四郎【みつたにくにしろう】

洋画家。岡山県生れ。五姓田芳柳師事したのち,小山正太郎の不同舎に学んだ。1900年渡欧後太平洋画会創立。初め写実的で説明的な描写で知られたが,1911年―1914年再渡欧後は後期印象派などの影響下に明るい色彩と大きな色面による構成的な表現に転じた。作品に《戦いの話》《車夫の家族》《緋毛氈》など。
→関連項目中村彝明治美術会

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20世紀日本人名事典 「満谷国四郎」の解説

満谷 国四郎
ミツタニ クニシロウ

明治〜昭和期の洋画家



生年
明治7年10月11日(1874年)

没年
昭和11(1936)年7月12日

出身地
岡山県吉備郡総社町(現・総社市)

学歴〔年〕
中学中退

経歴
明治24年中学中退後上京し、五姓田芳柳に入門、25年小山正太郎の不同舎に学び、明治美術会に参加。33年渡欧、帰国後34年太平洋画会創設に参加、「戦の話」「車夫の家族」など写実的風俗画を発表。44年〜大正2年再び滞欧、後期印象派やキュービスムの影響を受け、画風を一新。文展・帝展審査員を務めた。14年帝国美術院会員。他の代表作に「林大尉の戦死」「緋毛氈」など。また薄田泣菫、国木田独歩と交流が深く、装幀や挿絵を多く手がけた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「満谷国四郎」の意味・わかりやすい解説

満谷国四郎
みつたにくにしろう

[生]1874.10.11. 岡山,総社
[没]1936.7.12. 東京
洋画家。中学校中退後画家を志して上京,五姓田芳柳,小山正太郎に学び,暗い写実的作風を示した。 1900年フランスに渡り J.P.ローランスに師事,翌年帰国,02年太平洋画会を結成。 11年再び渡仏。また 19年以来数回中国を旅行。この間セザンヌ,ルノアールらの後期印象派の影響を受け,暗い写実的な画面は次第に明るくなり,晩年には東洋的で平明な装飾性の強い作品表現となった。文展および帝展審査員をつとめ,帝国美術院会員。主要作品『車夫の家族』 (1908,東京芸術大学) ,『早春の庭』 (31,大原美術館) ,『緋毛氈』 (32,同) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「満谷国四郎」の意味・わかりやすい解説

満谷国四郎
みつたにくにしろう
(1874―1936)

洋画家。岡山県生まれ。1891年(明治24)上京し、翌年小山(こやま)正太郎の不同舎に入る。1900~01年(明治33~34)渡欧し、パリ万国博覧会に出品して褒状を受け、帰国の翌年同志と太平洋画会を創立した。7年の第1回文展以後毎年審査員を務め、また同年の東京府勧業博覧会で一等賞を受けた。のち再渡欧(1911~14)し、近代的造形に作風を転じる。25年(大正14)帝国美術院会員となる。大正後期から昭和初めにかけて中国に4回旅行し、しだいに装飾的な様式化に進んで、独自の画境を開いた。代表作に『戦の話』『かりそめのなやみ』『砂丘の家』『緋毛氈(ひもうせん)』などがある。

[小倉忠夫]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「満谷国四郎」の解説

満谷国四郎 みつたに-くにしろう

1874-1936 明治-昭和時代前期の洋画家。
明治7年10月11日生まれ。小山正太郎に師事。明治美術会10周年展の「林大尉の戦死」で注目された。太平洋画会の創立会員。「車夫の家族」などの写実的画風から,平明な装飾画風にすすみ,代表作は「緋毛氈(ひもうせん)」。文展,帝展の審査員,帝国美術院会員。昭和11年7月12日死去。63歳。岡山県出身。

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367日誕生日大事典 「満谷国四郎」の解説

満谷 国四郎 (みつたに くにしろう)

生年月日:1874年10月11日
明治時代-昭和時代の洋画家
1936年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の満谷国四郎の言及

【明治・大正時代美術】より

…これらの中では,《天平の面影》(1902)や《蝶》(1904)を描いた藤島武二と,彼の影響を受けて《海の幸》(1904)や《わだつみのいろこの宮》(1907)のように詩情豊かな浪漫的な作風をうち出した青木繁が傑出している。 明治美術会にも,欧米に学んだ中村不折,満谷(みつたに)国四郎(1874‐1936),吉田博(1876‐1950),鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)(1874‐1941),中川八郎(1877‐1922),河合新蔵(1867‐1936),丸山晩霞(1867‐1942),大下藤次郎などが現れて,1901年太平洋画会を興し,白馬会に対抗した。しかし07年文部省美術展覧会(文展)が設立されると,黒田のアカデミックな写実に印象派の色彩を加えた明るい外光主義の画風,すなわち美術学校と白馬会の画風が,日本のアカデミズムとして洋画界を支配するようになっていった。…

※「満谷国四郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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