デジタル大辞泉
「小山正太郎」の意味・読み・例文・類語
こやま‐しょうたろう〔‐シヤウタラウ〕【小山正太郎】
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小山 正太郎
コヤマ ショウタロウ
明治・大正期の洋画家
- 生年
- 安政4年1月21日(1857年)
- 没年
- 大正5(1916)年1月7日
- 出生地
- 越後国長岡(新潟県長岡市)
- 学歴〔年〕
- 工部美術学校〔明治11年〕中退
- 経歴
- 明治4年上京、8年川上冬崖の聴香読画塾に学び、9年工部美術学校でフォンタネージに洋画を師事。11年退学して同窓の松岡寿らと十一字会を結成、19年東京高等師範学校助教授となった。のち教授。20年本郷団子坂に画塾・不同舎を設立、22年明治美術会設立に参加、33年パリ万国博覧会視察のため渡欧、40年から文展審査員。不同舎での教育はデッサンは「1本の線で描け」という精神で、門下には中村不折、小杉放庵、坂本繁二郎、青木繁、石井鶴三らがいる。代表作に「山村嫁女」「川上冬崖像」「仙台の桜」「牧童」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
小山正太郎 (こやましょうたろう)
生没年:1857-1916(安政4-大正5)
洋画家。越後長岡に生まれる。1872年(明治5)川上冬崖の聴香読画館に入門。士官学校図画教授掛を経て,工部美術学校開設とともに入学。同校助手となるが,師フォンタネージの後任教師に不満をもち,同志と退校して十一字会を組織。明治中期の国粋保存,洋画排撃に対して,私塾不同舎を中心に洋画啓蒙の立場を貫く。松岡寿,浅井忠らと明治美術会を組織。東京師範学校で教鞭をとり,教科書編集など美術教育者として活躍する。内国勧業博や文展の審査にあたり,美術行政の上にも大きな足跡をのこしている。
執筆者:酒井 忠康
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小山正太郎
こやましょうたろう
[生]安政4(1857).1.21. 越後,長岡
[没]1916.1.7. 東京
洋画家。長岡藩医小山良運の子。明治4 (1871) 年上京して川上冬崖の聴香読画館に入り,次いで工部美術学校に入学しアントニオ・フォンタネージに師事。 1878年同校を退学し浅井忠らと十一字会を組織,1887年不同舎を開いて後進を指導した。 1889年には浅井忠らと明治美術会を創設して洋画壇の基礎を築いた。 1900年渡仏。東京高等師範学校教授,文展審査員を務めた。主要作品『牧童』 (1879) ,『川上冬崖』 (1881) ,『仙台の桜』 (1881,新潟県立近代美術館) ,『水辺の春』 (1891) 。
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小山正太郎
こやましょうたろう
(1857―1916)
洋画家。越後(えちご)国長岡に藩医の子として生まれる。1871年(明治4)上京し、翌年川上冬崖(とうがい)の聴香読画館に入り西洋画法を学ぶ。兵学寮に出仕し、また陸軍士官学校図画教授掛となるが、76年創設の工部美術学校に入学し、助手となる。78年フォンタネージの辞任後に退学し、浅井忠(ちゅう)らと十一会を結成。文部省図画取調委員となる。87年洋画塾不同舎を開いて後進を指導するほか、89年浅井、松岡壽(ひさし)らと明治美術会を結成し、評議員として尽くす。日清(にっしん)・日露の戦役に従軍。1907年(明治40)東京高等師範学校の図画科主任教授となり、美術教育家として大いに貢献したほか、文展審査員なども務めた。代表作に『川上冬崖像』『仙台の桜』『牧童』など。
[小倉忠夫]
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小山正太郎
没年:大正5.1.7(1916)
生年:安政4.1.21(1857.2.15)
明治期の洋画家。越後国(新潟県)長岡生まれ。長岡英学校に学び明治4(1871)年上京,川上冬崖の画塾聴香読画館に入る。7年にはアベル・ゲリノーに水彩画法などを学んだ。9年工部美術学校に入学,フォンタネージの指導を受け,翌年助手となる。11年同校を退学し浅井忠らと十一会を結成した。22年明治美術会の創立に参画,また画塾不同舎を主宰,中村不折,鹿子木孟郎ら多くの門弟を育てた。33年渡欧。初期文展の審査員を務めたほか,東京高等師範学校で教えた。作品に「仙台の桜」(新潟県立近代美術館蔵),「川上冬崖像」などがある。
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小山正太郎 こやま-しょうたろう
1857-1916 明治-大正時代の洋画家。
安政4年1月21日生まれ。安政4年1月21日生まれ。小山吉郎・秋作の兄。川上冬崖(とうがい),フォンタネージにまなぶ。明治20年画塾不同舎をひらき,22年浅井忠らと明治美術会を結成。青木繁,坂本繁二郎らの弟子をそだてる。東京高師教授もつとめた。大正5年1月7日死去。60歳。越後(えちご)(新潟県)出身。代表作に「川上冬崖像」「仙台の桜」。
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小山正太郎
こやましょうたろう
1857〜1916
明治・大正時代の洋画家・美術教育家
越後(新潟県)の生まれ。川上冬崖に学び,のち工部美術学校でフォンタネージに師事。1889年浅井忠らと最初の洋風美術団体である明治美術会を結成,のち東京高等師範学校教授となり洋画教育につとめた。門下に青木繁らがいる。代表作に『川上冬崖像』など。
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小山 正太郎 (こやま しょうたろう)
生年月日:1857年1月21日
明治時代;大正時代の洋画家
1916年没
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