平安時代に栄えた邸宅で,平安京の近衛大路の南,東洞院の東にあり,広さは1町に及んだ。現在の京都御苑内で京都御所の南の場所が跡地。はじめ清和天皇と子の貞保親王邸であったのを摂関の藤原忠平が伝領。忠平は別にもと藤原冬嗣邸の東京第(小一条院)も伝領していたが,花山院はその東に位置していたところから東一条家とも単に東家とも呼ばれた(《拾芥抄》)。忠平の所有となったのは10世紀初めごろと考えられる。忠平の日記《貞信公記》には,931年(承平1)に,この東家で狐や鷺を見るなどの話が散見する。この邸は忠平から子の師輔,その子伊尹へと伝えられ,伊尹の娘の〈九の御方〉を介して孫の花山天皇が居住することにもなった(《栄花物語》)。天皇の諡号(しごう)はそれにちなむ。そもそも邸の名の由来は庭に撫子や萩といった草花が多く植えられていたことによるという。平安時代後期には摂関藤原師実が伝領し,さらに子の家忠,そして忠雅,兼雅へと伝えられ,この家系を花山院家と称した。
執筆者:朧谷 寿
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平安・鎌倉時代の邸宅の一つ。東一条、東院(ひがしのいん)などともいう。清和(せいわ)天皇の皇子式部卿(しきぶきょう)貞保(さだやす)親王の邸宅のあったところで、四周にナデシコ、ハギなどを多く植えたため花山(はなやま)という名があったことから花山院の名がつけられたという。京都近衛(このえ)大路の南、御所の西部、現京都府庁の東方にあたる。藤原忠平(ただひら)・師輔(もろすけ)へと伝領、冷泉(れいぜい)天皇は東宮のときに、また花山法皇もここに住した。のちに隣の小一条院をあわせて藤原道長の孫関白(かんぱく)師実(もろざね)が伝領、その次子左大臣家忠(いえただ)へと受け継がれた。七清華家(せいがけ)の一つとして有名な花山院家は、この家忠がこの花山院を氏号としたのに始まる。1336年(延元1・建武3)後醍醐(ごだいご)天皇はここを仮皇居とし、ここから吉野へ移った。応仁(おうにん)の乱(1467~77)に焼失。
[小野信二]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…平安時代後期の関白藤原師実の第2子家忠を始祖とする。家忠が婚姻ののち父師実の邸花山院を譲り受けたのにちなんで花山院左大臣と称した。その子権中納言忠宗は同邸に住した形跡はないが,忠宗の子忠雅は花山院太政大臣と,その子および孫の兼雅・忠経はそれぞれ後花山院左大臣・花山院右大臣と称されたように,代々同邸を本邸とし,花山院を称号にしたが,鎌倉時代中期以降に花山院が家の号として用いられることになった。…
…諱(いみな)は師貞(もろさだ),僧名入覚。花山院とも。冷泉天皇の第1皇子。…
※「花山院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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