久慈郡(読み)くじぐん

日本歴史地名大系 「久慈郡」の解説

久慈郡
くじぐん

面積:五九〇・二一平方キロ
大子だいご町・里美さとみ村・水府すいふ村・金砂郷かなさごう

県の北西部に位置し、南北に長く、北は福島県、北西は栃木県に接する。東には南北に走る阿武隈高地南端部が、久慈川の支流里川の谷で東列の多賀山地と西列の久慈山地とに分れる。久慈山地はさらに山田川の谷で東列の東金砂ひがしかなさ山地と西列の男体なんたい山地に分れる。久慈川の西、栃木県境には八溝やみぞ山地の八溝山塊・鷲子とりのこ山塊などが断続的に連なる。最北西にそびえる八溝山(一〇二二・二メートル)は中・古生層よりなり、県内最高峰。集落の多くは久慈川および各支流域に発達する。

〔原始・古代〕

先土器時代の痕跡は確認されていない。縄文前期に最高潮に達した海進は郡南部にまで及んでいたとみられ、金砂郷地方には縄文早期・前期の遺跡はみられない。中期以降になると遺跡は各地に分布する。弥生遺跡は数少ないが広く分布、古墳は金砂郷地方に偏在し、北になるにしたがい少ない。この頃専業集団の発生も考えられ、金砂郷村玉造たまづくりより滑石製模造品の玉類が検出されている。

大和朝廷の支配下になると久慈川中流・下流部一帯は久自くじ国とされたと考えられ、「国造本紀」に「久自国造 志賀高穴穂朝御代、物部連祖伊香色雄命三世孫船瀬足尼定賜国造」とみえる。大化改新後、常陸国の成立によって久自国は久慈郡となる。「常陸国風土記」は「久慈の郡、東は大海、南と西とは那珂の郡、北は多珂の郡と陸奥の国との堺の岳なり。古老のいへらく、郡より南、近く小さき丘あり。かたち鯨鯢くぢらに似たり。倭武の天皇、因りて久慈と名づけたまひき」と記す。また久慈郡に「谷会山たにあひやま」「河内の里かふちのさと」「玉川」「山田の里」「石門いはと」「大伴おほともの村」「太田の郷」「長幡部ながはたべの社」「薩都さつの里」「かびれの高峯」「高市たけち」「密筑みつきの里」「大井」「助川すけかは」「遇鹿あふか」などがみえ、郡域は久慈川の上中流部を除き、両岸(現那珂郡の一部)から里川流域・多賀山地南部一帯(現常陸太田市全域、日立市の一部)を含んでいたことを示す。


久慈郡
くじぐん

南北朝期からみえる郡名。郡域は現久慈市域および久慈川上流域とされる。建郡の時期は未詳であるが、古代の閉伊へい(史料上の初見は鎌倉時代末期)北部が分郡して成立(「大日本地名辞書」など)。元弘四年(一三三四)二月一八日の北畠顕家国宣(遠野南部文書)に「久慈郡」とみえ、奥州式評定衆と一番引付頭人を兼ねた信濃前司入道行珍(二階堂行朝)が当郡を与えられたが、在地の抵抗をうけたため訴え、陸奥国守顕家は南部又次郎(師行)に現地の引渡しを命じている。しかし、南部氏がこの命令を実行しなかったためか、久慈郡および東門ひがしのかどの給人(行珍)が辞退してきたため、建武元年(一三三四)六月一二日、顕家は再検討してなお辞退するのであれば、新たな給人を決めるよう指示している(「北畠顕家御教書」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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