改訂新版 世界大百科事典 「陸奥将軍府」の意味・わかりやすい解説
陸奥将軍府 (むつしょうぐんふ)
建武政府および南朝が設置した奥羽統治の機関。ただし当時の正式機関名ではなく,近世の故実書《武家名目抄》などが使用した用語である。実体に即して4段階に把握できる。
第1段階は,建武政権下の陸奥国府である。1333年(元弘3)8月陸奥守に補任された北畠顕家が後醍醐天皇の皇子義良(のりよし)(翌年5月親王宣下)を奉戴し,北畠親房や一門の貴族に伴われ,旧幕府の官僚層や奥羽武士らを率いて多賀国府に着任し,体制を整備した。国府に式評定衆と3番の引付(ひきつけ)および政所(まんどころ),評定,寺社,安堵,侍所の諸奉行を置き,陸奥各地に郡奉行所という国府支庁を設置した。旧幕府機構に似た構造なので,陸奥将軍府とか奥州小幕府と称されることにもなるが,具体的な施政からみると,新政府の政策を掲げながらもそれを換骨奪胎し,また一方で北条得宗専制の政策を止揚しようとしている面もあって,単純に幕府的とも言いがたい。時代に即応して武士層の掌握をねらって,北畠親房と護良親王が中心となって構想し,顕家を前面に立てて具体化した体制であったが,新政府の地方支配制度中もっとも成功し,注目された。
第2段階は,35年(建武2)8月鎮守府将軍足利尊氏の新政府離反が明らかとなり,同11月顕家が鎮守府将軍を兼任したときである。国府は軍政府的性格を強め,顕家の命令は陸奥国宣にせよ御教書にせよ鎮守府からの発給という形式をとり,施政範囲も初めて陸奥・出羽両国に及んだ。
第3段階は,上洛して尊氏を九州に逐った顕家が,翌年3月鎮守大将軍の特別称号を許され,再度下向したときであり,常陸,下野を加えた4ヵ国の軍政をも担当した。しかし新政府衰退のあおりをうけ,37年(延元2・建武4)正月多賀国府から伊達郡霊山(りようぜん)城に居処を移し,統治府としての実態も解体の一途をたどった。この年再度の上洛軍を進めたのが,大将軍の最大かつ最後の組織力を示すものとなった。
顕家の戦死後,南朝では奥羽での成功例にならい,親王各地分遣策をとった。第4段階は,この一環として,38年(延元3・暦応1)閏7月北畠顕信が陸奥介兼鎮守府将軍に任命されたときである。顕信はその2年後に陸奥に入部し,13年後にようやく多賀国府を掌握したが,このころは北朝方の奥州管領府が奥羽支配体制を固めており,顕信の国府滞在も3ヵ月足らずで終わった。顕信は62年(正平17・貞治1)ころまで奥羽にとどまったが,一定地域に根を下ろして将軍府を整備した形跡はとどめていない。
以上,建武政権下の陸奥国府に端を発し,鎮守府将軍北畠氏の治府として南朝勢力の基盤となったこの体制は,幾多の盛衰をたどったが,南朝による日本全土再統制のモデルとされただけでなく,足利氏による室町幕府の整備にも少なからぬ影響を与えており,その歴史的意義も高く評価される。
執筆者:遠藤 巌
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報