久江村(読み)くえむら

日本歴史地名大系 「久江村」の解説

久江村
くえむら

[現在地名]鹿島町久江

内浦街道に沿って南は小田中こだなか村に続き、中央を久江川が西流する。石動せきどう山系を越えて越中国射水いみず一刎ひとはね(現富山県氷見市)に通ずる道がある。地名地滑りによる崩壊の意味の「え」から起きたと伝える(鹿島郡誌)。久江川は桃瀬ももせ川ともよばれ水量豊富で、支流阿修羅あしゆら谷の桃ヶ滝は古くから知られる。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に「久江保」とみえ、公田数は従来四町九段三であったものが、建保五年(一二一七)の国衙の検注で七町三段二に増えたとある。文明一八年(一四八六)六月聖護院道興が東国巡歴の途次、能登国の石動山に参詣する道すがら当地に足跡をとどめ、「くゑのやちといふ所」で「心からうきすまひにも馴ぬらん八千たひ何をくゑの里人」と詠んでいる。久江の谷内とは、当時の集落が久江川流域の谷間に形成されていたことからくる表現であろう。

大永六年(一五二六)一〇月書写の気多社年貢米銭納帳(気多神社文書)によれば、「久江」の百姓中から一宮気多社へ進納される一貫三八〇文をさとう次郎が請負っていた。天正五年(一五七七)一一月一日の免田指出案(気多大宮司家文書)によれば、久江村より神官方への進納分一〇貫文は畠山旧臣の神保殿の分となっており、衆徒方に進納する一〇貫文は二月神事(おいで祭)料であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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