久沢村(読み)くざわむら

日本歴史地名大系 「久沢村」の解説

久沢村
くざわむら

[現在地名]和泉村久沢

伊勢いせ川に久沢川が合流する地点より久沢川上流一里の谷間にある小村下流米俵とめどうろ村。天正一七年(一五八九)の作職売券(野村家文書)に「久沢村」とみえる。正保郷帳によれば、畠方のみで九石であった。宝暦九年(一七五九)の年内諸上物目録(野村家文書)によると中田三反七畝余・上畑一町四反五畝余・中畑二町一反七畝余、家数二五(本百姓二四・水呑一)、人数一八二(男九三・女八九)であった。

当村は面谷おもだに銅山に近く、鉱山入用炭を焼く者が多く、天保一五年(一八四四)一〇月には、炭を焼くための拝借銀として村役人代官から竈数三五ぶん銀六三〇匁を受取っている(高瀬家文書)

久沢村
くざわむら

[現在地名]富士市久沢・久沢一―二丁目・鷹岡本町たかおかほんちよう

厚原あつはら村の西、潤井うるい川左岸に位置する。村内を凡夫ぼんぷ川が南流し、南西端で潤井川に合流する。寛永改高附帳に久沢村とみえ、田方五五七石余・畑方一二五石余。元禄郷帳では高八二三石余。国立史料館本元禄郷帳では旗本日向二氏の相給。領内では東久沢・西久沢に分けられていた。旧高旧領取調帳では東久沢村高五八九石余・西久沢村高二二九石余でともに沼津藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android