面谷銅山(読み)おもだにどうざん

日本歴史地名大系 「面谷銅山」の解説

面谷銅山
おもだにどうざん

[現在地名]和泉村面谷

九頭竜くずりゆう川沿いの面谷にあって、近世および近代に稼行した銅山。ここから産出される銅は大野銅・越前銅ともよばれた。創始時期について「越前国名蹟考」は、寛文九年(一六六九)福井大火の後、材木を切出した時に銅を発見したとする。また明治一七年(一八八四)工部省に提出した「越前面谷民行鉱山誌料」には、康永年間(一三四二―四五)猟師清兵衛が面谷山の山頂に露頭を発見、これを掘り鉱脈に切当った。しかしこの稼行は長く続かず、のち天正年間(一五七三―九二)に碓井直重衛門が再興したと記す。

江戸時代前期の稼行状態はつまびらかでないが、延宝二年(一六七四)大坂の銅吹屋が長崎奉行牛込中左衛門へ「国々銅山所書」を提出した公領五ヵ所、私領一五ヵ所のなかに「越前国大野山松平越前守様御領分」とあり、また翌年、当銅山山師の武衛門の家から出火、多くの死者を出したことを記した証文(面谷区有文書)があり、ある程度稼行していたことが推察される。少し時代は下るが、住友修史室所蔵記録によれば、大坂の精銅業者に送られた大野銅は、宝永五年(一七〇八)一万八千斤、同六年八万六千五〇〇斤、同七年一一万七千九〇〇斤、正徳元年(一七一一)一万二千一〇〇斤、同二年四万六〇〇斤、同三年五千二〇〇斤、同四年一三万三九二斤、同五年六万四千七八三斤で、諸国銅山中で第一一、二位となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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