田中吉政(読み)たなかよしまさ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「田中吉政」の意味・わかりやすい解説

田中吉政
たなかよしまさ
(1548―1609)

戦国末・近世初頭の武将大名天文(てんぶん)17年近江(おうみ)(滋賀県)に生まれる。初め宮部善祥坊(みやべぜんしょうぼう)に仕えて因幡(いなば)鳥取にいたが、のち豊臣(とよとみ)秀吉に仕えた。1588年(天正16)従(じゅ)五位下兵部大輔(ひょうぶのたい)。翌年三河岡崎(みかわおかざき)城を与えられて5万石余を領し、のち加増されて10万石となった。このとき秀吉から一字を与えられて吉政と改称関ヶ原戦いでは東軍に属し、石田三成(みつなり)を捕縛するなどの戦功をあげ、筑後(ちくご)一国32万5000石余を与えられて柳河(やながわ)(福岡県柳川市)に居城を置いた。このとき従四位下、のち侍従(じじゅう)、筑後守(かみ)。慶長(けいちょう)14年2月18日、江戸参府の途中で没した。年62。遺領は嫡男忠政(ただまさ)が継いだが、忠政は1620年(元和6)に後嗣(こうし)がないまま没して、田中氏は絶家となった。

[荒野泰典]

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改訂新版 世界大百科事典 「田中吉政」の意味・わかりやすい解説

田中吉政 (たなかよしまさ)
生没年:1548-1609(天文17-慶長14)

安土桃山時代の武将。近江の人。幼名久兵衛。初名長政。兵部大輔,筑後守を称した。宮部継潤に仕え,のち豊臣秀吉の命により秀次に属し,秀次生害のあと秀吉に仕えた。1590年(天正18)まで近江八幡山城主(3万石)。同年小田原征伐後に三河岡崎城主,94年(文禄3)三河西尾城主となり,その後三河で加増され,子吉次の所領を合わせて10万石。関ヶ原の戦では東軍に応じて軍功をあげ,とくに石田三成の逮捕は著名である。戦後家康から筑後柳河城主(30余万石)に封ぜられた。
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朝日日本歴史人物事典 「田中吉政」の解説

田中吉政

没年:慶長14.2.18(1609.3.23)
生年:天文17(1548)
安土桃山・江戸前期の武将。近江の田中重政の子。幼名宇竹,久次,久兵衛を称し,名は宗政,長政,吉政と変えている。官途は兵部大輔で,関ケ原の戦後,従四位下・侍従に叙任された。はじめ宮部継潤に仕え,のち豊臣秀吉に仕えて豊臣秀次の傅役となり,天正18(1590)年には,三河岡崎城主として5万7000余石を与えられた。秀次失脚事件後,秀次に対する諫言などが評価されて10万石に加増され,関ケ原の戦では東軍に属し,石田三成を捕らえた功により筑後柳川城主32万石を与えられた。河川改修や領内の産業振興に成果をあげている。パルトロメヨの洗礼名を持つキリシタン大名でもあり,領内のキリスト教徒が迫害されたとき保護したという。

(小和田哲男)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田中吉政」の解説

田中吉政 たなか-よしまさ

1548-1609 織豊-江戸時代前期の武将,大名。
天文(てんぶん)17年生まれ。織田信長,豊臣秀次,豊臣秀吉につかえ,天正(てんしょう)18年三河(愛知県)岡崎城主。関ケ原の戦いでは東軍に属し石田三成を捕らえる功をたて,筑後(ちくご)(福岡県)柳河(やながわ)藩主田中家初代となる。32万5000石。城下でキリスト教布教をゆるした。慶長14年2月18日死去。62歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。初名は宗政,長政。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田中吉政」の意味・わかりやすい解説

田中吉政
たなかよしまさ

[生]天文17(1548).近江
[没]慶長14(1609).2.18. 伏見
安土桃山時代の武将。幼名は竹,久次,久兵衛。受洗名はバルトロメオ。初め織田信長に従い,のち豊臣秀次に属し,天正 18 (1590) 年三河岡崎に5万 7400石を与えられた。関ヶ原の戦いには東軍に属した。石田三成を捕えるなどの軍功によって,慶長6 (1601) 年筑後久留米 32万 5000石に移封され,筑後守となった。

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世界大百科事典(旧版)内の田中吉政の言及

【岡崎城】より

…その後嫡子信康の居城となり,79年(天正7)以後は城代支配。家康の関東移封後田中吉政が城と城下町の拡張と改造を行い,本丸からみて南,東は3重,北は4重,西は8重の堀,川に囲まれた近世の城の原型を完成した。関ヶ原の戦後は岡崎藩万石の本城であったが,1874年解体され,本丸,二の丸跡は公園とされた。…

【尾張国】より

…関東への備えとして甥の羽柴(豊臣)秀次を清須城主にし,一柳直盛を黒田城(木曾川町)に入れ3万5000石を与え,秀吉の直轄領もおいた。秀次は関白で不在であり,実父三好吉房に犬山城10万石を与え清須城におらせて岡崎城主田中吉政とともに国政をゆだねた。秀次の治世中,92年(文禄1)総検地,翌年再検地,木曾川堤の構築および荒地開墾がおこなわれた。…

【筑後国】より

… 1600年(慶長5)の関ヶ原の戦の後,豊臣方に属した毛利秀包,立花宗茂,筑紫広門はいずれも改易された。小早川秀秋は備前に移され,そのあとに田中吉政が筑後一国を与えられて,三河国岡崎より入部した。吉政は柳河城におり,久留米城以下の7端城に二,三男および有力家臣を配した。…

【柳川[市]】より

…戦国時代,蒲池氏がここに城を築いていた。1587年(天正15)立花宗茂が入部,1600年(慶長5)筑後一国を領した田中吉政が城主となり,城郭を拡大し,城下町を建設した。20年(元和6)立花宗茂が再入部した。…

【柳河藩】より

…1587年(天正15)筑前立花城を居城とする立花宗茂が,豊臣秀吉の九州征伐ののち筑後柳河に配置されて成立し,石高は13万2200石。宗茂は関ヶ原の戦で西軍に味方したため改易となり,代わって1600年(慶長5)三河岡崎から田中吉政が入封し,筑後一国を支配し,石高は32万5000石。吉政は柳河城を修築・整備する一方,低湿デルタ地帯の開発を進めたが,2代忠政のとき20年(元和6)世嗣断絶によって改易となり,代わって,先に改易となり陸奥棚倉において再び大名に取り立てられた宗茂が再入封し,筑後下5郡10万9600石を領有した。…

※「田中吉政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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