久見崎村(読み)ぐみざきむら

日本歴史地名大系 「久見崎村」の解説

久見崎村
ぐみざきむら

[現在地名]川内市久見崎町

川内川河口部左岸にあり、西は外海に面する。東は高江たかえ郷高江村、南は同郷寄田よした村、北は川内川を隔てて高城たき水引みずひき網津おうづ村。「文徳実録」仁寿三年(八五三)七月二七日条に爵三級を与えられた「薩摩国孝女くむさき福依売」がみえる。この「前」は当地のこととされる。「応永記」によれば、応永一八年(一四一一)奥州家の島津久豊が碇山いかりやま城の島津久世・忠朝を攻撃する際、先年の萩嶺の陣のように京泊きようどまりを焼払い、坊泊ぼうどまり(現坊津町)市来いちきなどの大船二〇艘で朔日頃の高潮に乗じて桾前くみざきの辺りや高江の川縁に漕寄せ上陸しようと計画したとある。この桾前は久見崎である。弘治元年(一五五五)八月一二日には串木野衆・市来衆が談合して「千台之くミ崎」と塩屋しおや(現出水市)を攻撃した(「山本氏日記」旧記雑録)。天正三年(一五七五)二月二〇日上洛のため串木野をたった島津家久は、隈之城くまのじよう・高江を経て久見崎の津の膳介方へ一泊、翌二一日久見崎を出港した(島津家久上京日記)。同一二年六月一六日には当地に唐船が着き、野間のま(現笠沙町)の政商為阿弥が油の壺一・木綿一を持参した(上井覚兼日記)。なお島津義久代歳暮・正月儀式次第(肝付文書)では、同年一月七日には久見崎の御仮屋より紙一束が島津氏のもとに進められている。

文禄四年(一五九五)北郷長千代丸(忠能)けどう院諸村が宛行われた際、当地も北郷氏領となった。御秘文雑集(都城島津家文書)所収の慶長三年(一五九八)のものとされる知行目録では、久見崎は二四〇石余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android