日本歴史地名大系 「乙女村」の解説 乙女村おとめむら 大分県:宇佐市旧四日市町地区乙女村[現在地名]宇佐市上乙女(かみおとめ)・下乙女(しもおとめ)荒木(あらき)村の北、黒(くろ)川の下流に沿う。北が下乙女、南が上乙女と連なっている平坦な村で、東は住江(すみのえ)村、西は尾永井(おながい)村。乙(おとめ)とも記す。宇佐宮行幸会八ヵ社の乙神社の所在地で、八幡大神宮司解(石清水文書)の宝亀四年(七七三)と推定される勘覆状(石清水文書)に「自其至乙浜」とみえる。文明一二年(一四八〇)六月二七日の永弘氏輔田地売寄進状案(永弘文書)の裏書に「おとめよりなり、借状ハ正田かくなり」とみえ、永禄一〇年(一五六七)三月七日の大宮司宮成社恩地坪付(宮成文書)には高家(たけい)郷の一所として「神領散在乙女村」と記される。 乙女村おとめむら 栃木県:小山市乙女村[現在地名]小山市乙女・乙女一―三丁目・暁(あかつき)一―三丁目思(おもい)川左岸の台地に位置し、対岸は網戸(あじと)村、北東は間々田(ままだ)町で、村の中央を日光街道が縦断する。中世には乙妻とも記す。元徳四年(一三三二)四月一二日に金沢称名(かねさわしようみよう)寺(現横浜市金沢区)領の乙女郷年貢取帳(金沢文庫古文書)が作成されており、総年貢二二一貫三一二文、耕地群は公田田畠・手作分(一色田)・名主分荒野在家畠からなる。建武三年(一三三六)八月五日の乙女郷田数注進状(同文書)に「おとめのかうのふさくとつくる田のかすの事」とみえ、後欠の断簡であるが不作田畠七町三反余・作田畠四町六反余とある。同四年七月四日には北朝方の大将桃井貞直に属した茂木知政が当地で戦功をあげている(「茂木知政軍忠状」茂木文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by