日本歴史地名大系 「五軒家屋敷跡」の解説 五軒家屋敷跡ごけんやしきあと 京都府:熊野郡久美浜町湊宮村五軒家屋敷跡[現在地名]久美浜町字湊宮海隣(かいりん)寺から蛭児(ひるこ)神社に至る道の南側一帯と、蛭児神社の西側一帯にあたる。湊宮(みなとみや)の主要部分を、ほとんど五軒家が占めていたわけである。五軒家とは、小西家の本家本座屋(ほんざや)、分家の新屋(あたらしや)・下屋(しもや)、それに木下・五宝(ごほう)の両家を加えたものである。五軒家という呼名は江戸後期のもので、廻船業のほかに両替商や酒造業も兼ねていたという。小西家は日村岳(ひまおか)砦に松倉周防守と同居し、天正一〇年(一五八二)落城後武士を捨てて湊宮に住んだ小西宗雄の子孫と伝える。小西彦左衛門尉智信(小西宗雄の子か)の頃、徳川家康の自由貿易主義に乗じて湊宮村を本拠にし、朝鮮方面に出航して巨利を得たという。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by