精選版 日本国語大辞典 「鎖国」の意味・読み・例文・類語
さ‐こく【鎖国】
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一般に鎖国とは、日本の近世封建制国家がその支配を確立しようとして、それと相いれないキリシタンを徹底的に禁圧するために、外交・対外交通・貿易を極端に取り締まり、制限したことから発生した国際的な孤立状態をさす。また、上述の目的のために、幕府が実施した政策のとくに法的措置を鎖国令と言い習わしている。
[津田秀夫]
この法的処置の中心となったのは、キリシタンの禁令であった。すなわち、(1)国内において、内外人を問わず、キリシタンの伝道ならびに信奉を禁止し、(2)いささかたりともキリシタンとの関係が懸念される文献や器具などを所持するのみならず、接触することさえも禁じ、(3)海外からのキリシタンの導入の防止のために、日本人の海外交通を禁止し、(4)対外交通・貿易の門戸を長崎1港に限り、また外国人の居住地も同地に制限し、原則として国内旅行を禁止した。(5)キリシタンの伝播(でんぱ)と関係の深かったスペイン、ポルトガル両国民との貿易ならびに来航を禁止した。
ところでこの禁令では、貿易に関していえば、両国以外の諸国民の来航ならびに貿易を禁止してはいない点に注意を払う必要がある。しかし現実には、中国・オランダ両国民の来航貿易と朝鮮人との対馬(つしま)経由交易だけが引き続いて行われたにすぎず、さらに近世後期になると、オランダ、中国、朝鮮を除いたすべての外国が鎖国令の対象となってくるのであり、これら諸国に対して国を鎖(とざ)したと解するようになった。
他方、鎖国の帰結としての開国について考えるとき、1633年(寛永10)から1639年(寛永16)の間の数度にわたる鎖国令において最重要課題であったキリシタン禁令は、開国後といえども励行されているのであり、その解決をみるのは明治政権が成立後数年を経てからであった。また開国後になってすべてに自由貿易となったのではない。すなわち、近世国家の社会的基礎としての石高(こくだか)制にもっとも深い関連性のある米穀については、鎖国制下と同じように、いかに米価が騰貴しようが低落しようが、外国への輸出も外国からの輸入も原則的にはできなかったのである。この点の禁が解けるのは同じように明治政権になってからのことである。
このことは、鎖国を理解するのに、単純にキリシタンを禁止するために世界から国を鎖したと理解するだけでは不十分であることを示している。
[津田秀夫]
ここでいま一度、鎖国の果たした役割についての従来の諸説を検討しておこう。その第一は、幕府が集権的な近世封建制支配を貫徹するために、それと相いれないキリシタンと政治的あるいは軍事的に結合する危険のある反幕諸勢力とを排除するために、鎖国が行われたとする見解である。とくに島原・天草一揆(いっき)がそれを断行する口実を与えたというものである。
第二は、オランダ側の立場からする見解で、オランダの商業資本による東洋貿易の制覇の一環として、日本が鎖国によってその体制に繰り込まれたというものである。このためにオランダより先に東洋に進出し、優位の地位を築き上げていたポルトガル、スペイン両国の日本への通商路を脅かし、さらに徳川幕府に対してポルトガル、スペイン両国の来訪意図が侵略的植民地政策にある点を中傷して功を奏したのが鎖国であるという説である。さらに南洋諸国での最大の競争相手であった日本の朱印船貿易の抑制を図ることに暗躍したとみるのである。事実として日本の鎖国政策実施後は、日本人の勢力範囲での有力な町にオランダは商館を再開あるいは新設して対日貿易のための市場を培養し、長く対日貿易の利益を独占したというのである。
第三は、朱印船貿易を国内の側からみて、特定の大商人の掌中に収め、西国大名の貿易を行う機会を減少し、貿易港も縮小されることとなったとする見解である。これとともに、主要貿易品であり、利益の大きい白糸の取扱いを糸割符(いとわっぷ)仲間という特定大商人の仲間組織が独占するようになったというのである。幕府は糸割符仲間の監督を強化し、糸割符法の拡張を図ることによって、外国商人の利益の恣意(しい)的な追求をも抑制するなど、糸割符仲間の取引を保護し育成に努めたことから、鎖国を、貿易統制を通じて幕政強化を図ったとみる説である。
これらの諸説に共通している点は、国の内外の情勢から政治・経済・思想の面から国を鎖した制度として、このために世界的視野の狭窄(きょうさく)と島国根性(こんじょう)が育成され、市民的・合理的精神の発達が妨げられたとみているのである。もっとも他面では、日本独自の文化と国内産業の発達を促したとも解している。しかし、もともと鎖国という用語は、いわゆる鎖国令の発せられた前後にはなかったのであり、少なくとも近世の前期にはない。現在のところでは享和(きょうわ)年間(1801~04)にオランダ通詞(つうじ)志筑忠雄(しづきただお)がケンペルの『日本誌』を『鎖国論』として抄訳したのが初見である。鎖国令の断行された段階では、かならずしも国を鎖すという意識はなかったといってよい。なるほど、幕府は近世国家の確立を図るために、これと相いれないキリシタンに対する徹底的な禁圧方針から、対外交通、貿易を極端に制限し、そのことによって国際的孤立状態を自ら創出したが、鎖国令のなかには、スペイン、ポルトガルの両国以外の国々との貿易はとくに禁止していないのである。ただ、これらの国々は日本にこなかっただけである。
[津田秀夫]
また重要なのは、鎖国制下の日本で貿易上の理由から国内財政が赤字になっても、幕府は、制限することはあっても絶えず長崎を通じて貿易を行っており、長崎を通じて東アジアの銀建て経済圏に接触しているのである。国内では大坂を中心とする西日本の銀建て経済圏は長崎を通じて世界に接触しており、このために決済に使用されたのは金銀なかんずく銀であったが、日本産の銀の産出量が減少するにつれて、国外に支払われる代用品として、銅や俵物(たわらもの)(煎海鼠(いりこ)、干鮑(ほしあわび)、鱶(ふか)の鰭(ひれ))が積極的に大坂に集められ、長崎を通じて国外に輸出されていた。したがって、鎖国を、近世国家としての日本を世界から遮断し、孤立させる状態に置いたものとみ、これに対して開国を、鎖国状態の日本を完全に解体して世界市場に解放したと解するのは、多少の無理がある。とくに五品江戸廻送(かいそう)令の対象となったもののうち生糸・茶以外の輸出品は、この廻送令の実施された直後の一時期に急激な増加をみただけである。むしろ重要なのは、国内外の金銀比価の相違から金が国外に流れたことと、そのために国内の銀建て経済圏での物価の急騰傾向が現れてきたことである。これらのことは、少なくとも、15世紀末から16世紀にかけての大航海時代が始まって地球的な規模での世界史が成立したことと関連を有している。このような世界史のなかで日本の貿易商人は活躍し、南洋日本人町も生まれたのである。また豊臣(とよとみ)秀吉は朝鮮侵略戦争を起こして失敗した。ここで重要なのは、検地を通じて確立した近世国家の成立の社会的基礎である石高制の原則が国外には持ち出せないことを、高価な代償をもって知ったことである。
近世国家は開幕とともに幕藩制を成立せしめたが、さらに一歩進めて、世界のなかでの独立国としての自立再生産圏を確立する必要が生まれた。このために幕府は国家公権を発動して、貿易都市や三都のような巨大都市を掌握して近世国家の再生産体制を確立する努力をしたが、これを最終的に完成させたのが鎖国令に基づく鎖国制であり、それによって地球的な意味で主権国家としての自立再生産圏を確立させたのである。いいかえれば、鎖国制をとることで、日本は地球的な規模での世界史を構成する一国家となったのである。
[津田秀夫]
『岩生成一著「鎖国」(『岩波講座 日本歴史10』所収・1963・岩波書店)』▽『中村質著「島原の乱と鎖国」(『岩波講座 日本歴史9』所収・1975・岩波書店)』▽『中田易直著「鎖国」(『日本史の問題点』所収・1965・吉川弘文館)』▽『山口啓二著「日本の鎖国」(『岩波講座 世界歴史16』所収・1970・岩波書店)』▽『朝尾直弘著『日本の歴史17 鎖国』(1975・小学館)』
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江戸幕府の孤立的な対外関係のあり方。幕府は1633年(寛永10)に始まるいわゆる鎖国令により,日本船の海外渡航の禁止,海外在住の日本人の帰国の禁止,貿易地の制限,ポルトガル人の追放を命じ,長崎でオランダ船・中国船との貿易のみを行う体制を築いた。この政策のおもな目的は,当時全国に広がっていたキリスト教の禁止と宣教師などの国内潜入防止にあり,39年以後は九州を中心とする沿海防備体制が形成された。ただし朝鮮とは府中(対馬)藩を介して国交を結んでおり,琉球も鹿児島藩の支配下にあったから,文字どおり国を閉ざしたわけではない。この点に注目して「海禁」という概念も用いられている。はじめ幕府には鎖国したとの認識はなかったが,19世紀初頭にロシアの貿易要求を拒絶した頃から鎖国が祖法であるという観念が成立し,幕府すら拘束する最重要の体制概念となった。1853年(嘉永6)アメリカ使節ペリーが来航し,その開国要求に屈して鎖国は終わった。
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…また安土桃山時代のうち豊臣秀吉が全国を統一した1590年(天正18)から1867年までを,その支配体制が幕藩体制であったという理由で近世として一括する時代区分が最近では有力である。江戸時代は,対外的には幸運な国際事情もあって外国から侵攻されることもなく鎖国が維持され,国内では大坂の陣(1615,16)以降,島原の乱(1637‐38)を除いて幕末に至るまで戦争があとを絶った平和な時代であった。そのため独自の発展をとげた経済・文化は,開国後にヨーロッパの近代文明を取り入れる基盤となるとともに,近来の日本人論で指摘されているような日本人に固有な思考慣習や気風の源として現代の日本文化にも深い影響を及ぼしている。…
…〈経国大典〉などの法典には直接海禁という言葉では表現されないものの,国民の私的な海外渡航を禁止したのをはじめ,海禁と同系統の政策がとられ,日本に対する外交文書にも海禁という言葉の使用例がある。
[日本における海禁と鎖国]
日本でも,律令国家は〈人臣無境外之交〉という原則を保持していたし,中世国家も,少なくともそのような意図を持っていた。統一政権は,海賊停止令(1588)において,対外関係における国家権力の大名・領主に対する優越を打ち出してのち,自己を中心とした周辺諸国との安定した国際関係を模索する一方で,キリスト教を排除しつつ,対外関係を統制下に置くための政策を進めたが,その行動原理は,海禁とそれを支えるイデオロギーに基づいていた。…
…漂流中死亡した者が多く,幸い異国に漂着または異国船に救助されて帰国した者もあった。江戸時代にとくに多いのは,日本のおかれている自然条件すなわち海流と気象をはじめ,鎖国の影響,経済や都市の発達,和船の構造上の欠陥などの理由があげられる。季節的には旧暦10月から1月までの4ヵ月間に最も多く,北西季節風の卓越する時期であった。…
…水戸学が西洋諸国の強大さを認識しつつも,あえて〈攘夷〉を唱えたのはこのためである。この意味で,それは尊王論と密接不可分の関係にあり,国内秩序を保つために外との接触を制限しようといういわゆる鎖国制度の〈精神〉を,幕末の新状況のもとで再強調したものということができる。 水戸学の尊王攘夷論は幕藩体制の階層秩序を根本的前提としている点で,三家の一つとしての水戸藩の立場が刻印されているが,1839‐42年のアヘン戦争とともに軍事的侵略の危機感が武士層に広がると,とくに攘夷論が彼らの間に浸透していく。…
…和人地以北の地を〈蝦夷地〉(千島・樺太島の一部を含む)と称し,アイヌ民族の居住地とした。こうした地域区分体制は,直接的には松前氏のアイヌ交易独占を実現する方策として成立したものであったが,同時に,幕府(長崎)―オランダ・中国,島津氏(薩摩藩)―琉球,宗氏(対馬藩)―朝鮮,松前氏(松前藩)―蝦夷地(アイヌ民族)という鎖国体制下の〈四つの口〉を介した異域・異国との外交・通交関係を軸とした日本型華夷秩序の一環として位置づけられていたところに大きな特徴がある。したがって近世にあっては,和人地までが幕藩制国家の領域,蝦夷地は異域・化外の地という性格を与えられていたことになるが,松前氏には石高がなかったことから,和人地内の村には村高がなかった。…
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