熊野郡
くまのぐん
面積:一四四・八五平方キロ
久美浜町
府の西北端に位置し、東は竹野郡網野町・中郡峰山町、南は兵庫県出石郡出石町・但東町、西は同豊岡市にそれぞれ標高約六〇〇メートル級の山をもって境し、北は日本海に面する。
東西最長一四キロ、南北最長一六キロで、南から北に向かって東から佐濃谷川・川上谷川・久美谷川が縦断し、それぞれ久美浜湾に注いでいる。この三本の河川に沿って沖積平野が発達し、沖積面より数メートル高位の所に、花崗岩の風化作用によってできた砂礫層の河岸段丘がよく発達している。海岸付近では、古砂丘・海岸段丘となっている。
地名「熊野」は藤原宮出土木簡に「熊野評私里」とみえるのが早く、「和名抄」刊本に「久万乃」と訓じられる。
〔原始〕
原始時代の遺物として、郡内より有舌尖頭器が出土している。浦明遺跡は弥生時代の遺跡であるが、縄文後期の土器も出土している。縄文から平安時代の函石浜遺跡(字湊宮)から出土する弥生式土器は九州遠賀川系のものなど西日本各地出土のものと同じであり、北九州に始まる弥生文化を受け継いだものと考えられる。また同遺跡出土の勾玉の材料の硬玉は日本には多く産しないので、大陸のものであるかもしれない。また王莽の貨泉が出土したところからも、大陸とのつながりを考えることができる。弥生後期になると、川上谷川に沿った内陸部に橋爪遺跡・須田遺跡、佐濃谷川沿いの内陸部に竹藤遺跡などがある。
川上谷川中流の東岸丘陵部に、古墳前期と思われる前方後円墳茶臼山古墳(字島)があり、下流の東岸洪積台地の甲山には甲山古墳がある。平野部の低丘陵地の芦原には前方後円墳芦高神社古墳がある。古墳前期・中期の前方後円墳が川上谷川流域に集まっていることから、四、五世紀における熊野郡の政治的中心はこの地域と考えられる。
六、七世紀頃のものと思われる横穴式石室をもつ後期古墳としては川上谷川西岸の須田の伯耆谷に七〇―八〇基の古墳群があり、対岸の新谷付近にも古墳群がある。この付近一帯は低湿な沃土に恵まれ、また川上摩須の伝承との関係からも、熊野郡内の政治的中心地であったと思われる。
〔古代〕
熊野郡は初め丹波国に属したが、「続日本紀」和銅六年(七一三)四月三日条によれば加佐・与佐・竹野・丹波の四郡とともにこの時丹波国から割置され丹後国となった。天平勝宝元年(七四九)一二月一九日付東大寺奴婢帳(正倉院文書)に「奴倉人年弐拾陸印目間黒子熊野郡戸主大私部広国之奴価稲壱仟束」とみえ、平城宮出土木簡に「丹後国熊野郡私部郷高屋□□大贄
納一斗五升」と記されるが「私部郷」については不明。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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