日本大百科全書(ニッポニカ) 「亭子院歌合」の意味・わかりやすい解説
亭子院歌合
ていじいんのうたあわせ
913年(延喜13)3月13日、宇多(うだ)法皇が故七条后温子(しちじょうのきさきおんし)の邸宅で上皇御所となっていた亭子院において催した歌合。題は二月(初春)・三月(季春)・四月(夏)・恋で、各10番20首をつがえる予定だったが、時間の都合で夏と恋とを半分にして、30番60首が披講された。判者(はんじゃ)は宇多法皇の勅判で、判詞(はんし)は記録されているものではもっとも古く、滑稽(こっけい)味があっておおらかな行事の雰囲気を伝えている。作者は、法皇、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、藤原興風(おきかぜ)、紀貫之(きのつらゆき)、坂上是則(さかのうえのこれのり)、伊勢(いせ)、大中臣頼基(おおなかとみのよりもと)など当時の有数の歌人が参加、「桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける」(貫之)、「桜花散りぬる風の名残(なご)りには水なき空に波ぞ立ちける」(同)など秀歌も多く詠まれている。行事の経緯を記した仮名日記は伊勢の作といわれる。形式的にも整った晴儀であった。
[小町谷照彦]
『萩谷朴・谷山茂校注『日本古典文学大系74 歌合集』(1965・岩波書店)』▽『小沢正夫校注・訳『日本古典文学全集7 古今和歌集』(1971・小学館)』