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紀貫之 きのつらゆき

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

紀貫之
きのつらゆき

[生]貞観10(868)頃
[没]天慶8(945)/天慶9(946)
平安時代前期の歌人。『土佐日記』の作者。三十六歌仙の一人。望行 (もちゆき) の子。御書所預,大内記,加賀介,土佐守などを経て従五位上,木工権頭 (もくのごんのかみ) にいたる。若くして『寛平御時后宮歌合』 (889?) ,『是貞親王家歌合』 (893) に列し,延喜5 (905) 年『古今和歌集』の撰者に任じられ,仮名序を執筆。

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デジタル大辞泉の解説

き‐の‐つらゆき【紀貫之】

[870ころ~945ころ]平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。大内記・土佐守(とさのかみ)などを歴任。紀友則(きのとものり)凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)壬生忠岑(みぶのただみね)古今集の撰にあたり、仮名序を書いた。著「土佐日記」、家集「貫之集」など。
大岡信の評論。昭和46年(1971)刊。「土左日記」の著者であるの、フィクション作家としての才能をひもとく。第23回読売文学賞の評論・伝記賞受賞。

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百科事典マイペディアの解説

紀貫之【きのつらゆき】

平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。武内宿禰を祖とする名門紀氏は貫之の時代には藤原氏に押されて衰えており,官人としての栄達の道は困難であった。しかし一族やその周辺には,従兄弟紀友則紀長谷雄,紀有常,惟喬親王在原業平などの有力歌人や漢詩文で名をなしたものがおり,のちに歌壇の第一人者となる貫之の出発に大きく影響したと思われる。(868ころ-945)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

紀貫之 きの-つらゆき

?-945 平安時代前期-中期の歌人,官吏。
大内記,土佐守などをへて天慶(てんぎょう)8年木工権頭(もくのごんのかみ)。「古今和歌集」編集の中心となり「仮名序」を執筆。おおくの屏風(びょうぶ)歌をつくり,はじめての仮名文学「土佐日記」をかくなど,国風文化の確立におおきな役割をはたした。家集に「貫之集」があり,勅撰集入集452首。三十六歌仙のひとり。天慶8年死去。享年は78歳か79歳といわれる。
【格言など】人はいさ心もしらずふるさとは花ぞむかしのかににほひける(「小倉百人一首」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

紀貫之

没年:天慶9(946)
生年:生年不詳
平安時代の歌人,三十六歌仙のひとり。望行の子。紀氏は本来武人の家系だが,貫之のころには多くの歌人を輩出,藤原敏行,兼覧王などが知られている。御書所預,内膳典膳,少内記,大内記,美濃介,右京亮,玄蕃頭,木工権頭などを歴任。従五位上。寛平年間(889~98)の是貞親王家歌合や寛平御時后宮歌合に出詠して歌界にデビュー。延喜5(905)年醍醐天皇の命を受け,友則らと共に最初の勅撰集『古今和歌集』を編纂するにおよんで,一躍歌壇的地位を築いた。この編纂作業では,わが国初の本格的歌論書ともいうべき仮名序を自ら草するなど,終始リーダーシップを発揮。また,集中第1位の102首もの自詠歌を選入して,理知的,分析的な古今歌風の形成に大きく関与した。このころから歌人としての声望はとみに高まり,以後,多くの権門貴紳から屏風歌制作の注文が相次いだ。屏風歌の数の多さは当時の一流歌人としての証であり,これらは晩年自ら編んだ『貫之集』の前半部に500首を超える一大屏風歌歌群となって残されている。 延長8(930)年,土佐守に任ぜられたが,赴任直前に醍醐天皇より命が下り,再び歌集を編むこととなった。『新撰和歌』4巻である。ただし,これは任地で編纂中に天皇が崩じたため,惜しくも勅撰集とはならなかった。ほかにも宇多法皇,藤原兼輔など貫之を主に支えていた人々が次々と他界し失意の内に任を終えた貫之は,承平4(934)年帰京の途に就く。この折の船旅を一行のさる女性に仮託して綴ったのが『土佐日記』であり,仮名で記された日記文学の創始として,のちの女流文学隆盛を招来するきっかけとなった。 貫之の業績は韻文,散文両分野にわたり真に多大なものがあるが,ことに国風文化の台頭期にあって,たえず文学上の新しい方法を模索し,開拓していったその精神は,大いに讃えられてよかろう。代表的詠歌に「桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける」などがある。<参考文献>大岡信『紀貫之』,村瀬敏夫『紀貫之伝の研究』,長谷川政春『紀貫之論』

(田中登)

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世界大百科事典 第2版の解説

きのつらゆき【紀貫之】

868ころ‐945(貞観10ころ‐天慶8)
平安前期の歌人,文学者,官人。貫之5代の祖,贈右大臣船守(ふなもり)は,桓武天皇の革新政策をたすけて平安遷都に力を尽くした偉材であったし,祖父本道の従弟有常は在原業平とともに文徳天皇第1皇子惟喬(これたか)親王を擁して,北家藤原氏と皇位継承権を争ったほどの輝かしい歴史をもっていた紀氏であったが,貫之の時代には完全に摂関藤原氏の勢力に圧倒されて,政界の表面から影をひそめていた。おそらく父望行(もちゆき)を早く失った貫之は,有常あたりから家系の誇りを教えられて成長した。

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大辞林 第三版の解説

きのつらゆき【紀貫之】

866?~945?) 平安前期の歌人・歌学者。三十六歌仙の一人。御書所預・土佐守・木工権頭。官位・官職に関しては不遇であったが,歌は当代の第一人者で,歌風は理知的。古今和歌集の撰者の一人。その「仮名序」は彼の歌論として著名。著「土左日記」「新撰和歌集」「大堰川おおいがわ行幸和歌序」,家集「貫之集」

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

紀貫之
きのつらゆき
(871?―946)

平安前期の歌人。『古今和歌集』の撰者(せんじゃ)として有名。また、『土佐日記』の作者、『新撰和歌』の編者でもある。三十六歌仙の一人。父は望行。宮中で位記(いき)などを書く内記の職などを経て、40歳代なかばでようやく従(じゅ)五位下となり、以後、930年(延長8)に土佐守(とさのかみ)に任じられるなど地方官を務めたが、最後は木工権頭(もくのごんのかみ)、従五位上に終わった。官人としてはそのように恵まれなかったものの、歌人としては華やかな存在であった。
 早く892年(寛平4)の「是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)」、「寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおおんとききさいのみやのうたあわせ)」に歌を残すが、当時はまだそれほど目だつ存在ではなかった。『古今集』(905成立)撰者に任じられ、従兄(いとこ)友則(とものり)の死にあって指導的な役割を果たすこととなり、『古今集』の性格を事実上決定づける。集中第1位の102首を入れ、画期的な仮名序をものして、名実ともに歌界の第一人者となる。『古今集』以後の活躍は目覚ましく、そのころからことに盛行した屏風歌(びょうぶうた)の名手として、主として醍醐(だいご)宮廷関係の下命に応じて多数を詠作した。907年(延喜7)の宇多(うだ)法皇の大井川御幸には9題9首の歌と序文を献じ、913年には「亭子院歌合(ていじいんのうたあわせ)」に出詠する。この間、藤原兼輔(かねすけ)・定方(さだかた)の恩顧を受け、歌人としての地歩を固めている。土佐守在任中には『新撰和歌』を撰したが、醍醐天皇すでに崩じ、帰京後序を付して手元にとどめた。『土佐日記』は土佐からの帰京の旅から生まれた作品である。以後はもっぱら藤原権門の下命によって屏風歌の詠作に従って晩年に至る。
 貫之の最大の功績は、『古今集』撰進を通じて国風文化の推進・確立を果たしたことである。漢詩文、『万葉集』の双方に深く通じて、伝統的な和歌を自覚的な言語芸術として定立し、公的な文芸である漢詩と対等な地位に押し上げた。『古今集』の仮名序では「心」と「詞(ことば)」という二面から和歌を説明し、初めて理論的な考察の対象とすることになった。和歌の理想を「心詞相兼」とすることは、後年の『新撰和歌』でいっそう確かなものになっている。もっとも、彼自身の歌は理知が勝って、情趣的な味わいに欠ける傾向がある。さらに注目すべきは、『土佐日記』により初めて仮名散文による文芸の可能性を示してみせたことである。[菊地靖彦]
 桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける
『萩谷朴校註『日本古典全書 新訂土佐日記――紀貫之全集』(1969・朝日新聞社) ▽大岡信著『日本詩人選7 紀貫之』(1971・筑摩書房) ▽村瀬敏夫著『紀貫之伝の研究』(1981・桜楓社)』

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世界大百科事典内の紀貫之の言及

【伊勢物語】より

…書名の由来も,伊勢(伊勢御(いせのご))の筆作にかかること,〈伊勢〉は〈えせ(似而非)〉に通ずること,巻頭に伊勢斎宮の記事があること,などをそれぞれ根拠に挙げる諸説があったが,なお不明である。作者も上の伊勢の説のほか,在原業平自記説もあり,紀貫之説も近年有力となりつつあるが,これまた特定は困難であろう。内容は諸本により若干の増減があるが,通行の天福本で全125段から成る。…

【古今和歌集】より

…完成奏覧は913年(延喜13)から914年の間である。撰者は紀友則,紀貫之,凡河内躬恒(おおしこうちのみつね),壬生忠岑(みぶのただみね)の4人で,友則は途中で没し編纂の主導権は貫之がとった。撰者の主張は序文に示され,〈やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける〉と仮名序の冒頭にいうように,創作主体としての人間の心を基本に据えるものである。…

【寸松庵色紙】より

…なお,それ以前には堺の南宗寺にあったという。古筆見(こひつみ)の鑑定では紀貫之筆とするが,《古今集》の撰者の自筆としようとしただけのことで,おそらくは院政時代の書であろう。真勝はこの色紙に,その歌の心をえがいた扇面を添え貼ったが,現在扇面も残っているものは多くない。…

【短歌】より

…時代的に早い在原業平,小野小町,僧正遍昭らのいわゆる六歌仙の歌風は,優美典雅な王朝的豊麗さをたたえた世界であった。そして,紀貫之,紀友則ら選者たちの時代の短歌は,鮮明かつ明確さを求めた表現世界であった。規範性をもって後の時代に広く影響を及ぼしたのは,選者たちの歌風である。…

【土佐日記】より

…平安中期,935年(承平5)ころ成立の作品。作者は紀貫之。934年12月21日,新任の国司島田公鑒に国司の館を明け渡して大津に移った前土佐守紀貫之は,27日大津を出帆し,鹿児崎(かこのさき),浦戸,大湊,奈半(なは),室津,津呂,野根,日和佐(ひわさ),答島(こたじま),土佐泊,多奈川,貝塚,難波,曲(わた),鳥飼,鵜殿,山崎と,船路の泊りを重ね,翌年2月16日ようやく京のわが家へ帰り着いた。…

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