平安前期の歌人,文学者,官人。貫之5代の祖,贈右大臣船守(ふなもり)は,桓武天皇の革新政策をたすけて平安遷都に力を尽くした偉材であったし,祖父本道の従弟有常は在原業平とともに文徳天皇第1皇子惟喬(これたか)親王を擁して,北家藤原氏と皇位継承権を争ったほどの輝かしい歴史をもっていた紀氏であったが,貫之の時代には完全に摂関藤原氏の勢力に圧倒されて,政界の表面から影をひそめていた。おそらく父望行(もちゆき)を早く失った貫之は,有常あたりから家系の誇りを教えられて成長した。たまたま宇多天皇が菅原道真を重く用いて摂関抑圧の方針を打ち出し,和歌を奨励して朝威の振興を計ろうとしたとき,青年貫之は時流に乗じて家運の再興を夢見たであろう。やがて897年(寛平9)に宇多天皇が退位し,901年(延喜1)に道真が失脚するとその望みも消えたが,醍醐天皇が《古今和歌集》の撰進を命じ,従兄の友則とともに撰者となるにおよんで,和歌の世界に名を挙げる新たな希望が貫之の胸に湧いた。和漢の教養と楽舞の才能を身につけ,誠実努力の人であった貫之は,《古今集》の編纂を通じて歌壇の第一人者の地位にのぼり詰めた。
しかし官界にあってはまったくの不遇で,延喜年間(901-923)の末年に至っても,相変わらず内御書所預(うちのおんふみのところのあずかり)として,図書の整理や歌集の編纂を本務とし,大内記・美濃介・左京亮などの官職は,俸給を増すための兼官に過ぎなかったから,位階の昇進は極端に遅れていた。930年(延長8)に土佐守に任じられたことが行政官吏として実務に就いた最初であったかもしれない。それだけに貫之は清廉謹直に国司としての職責を果たしたが,その間,醍醐天皇をはじめ右大臣藤原定方,権中納言藤原兼輔など,貫之の後ろだてとなっていた有力者が相ついでこの世を去り,935年(承平5)任終わって帰京したとき,政官界において貫之は孤立無援であった。当時の大家族を扶養するためには権力者に接近して官職を求めねばならない。国司として常識となっていた不正の蓄財をいっさい避けていた貫之としては,和歌の学識をもって権力者の知己を求めるよりほかに道はない。そこで創作したのが《土佐日記》である。和歌初学入門の年少者のためにはおもしろくてためになる手引きの歌論書,また当時の国司の腐敗堕落や交通業者の不正手段を諧謔を交えて痛烈に風刺する一方,貫之自身の精励さや清貧を印象づけ,ひそかに亡児を悲嘆し老境を嘆き父祖の栄光を偲ぶ日本最初の文学作品としての日記がこれであった。やがてその効果は現れて太政大臣藤原忠平父子の庇護を受け943年(天慶6)推定76歳にしてようやく従五位上に昇進したが,従五位下に叙せられてからすでに26年を経ていた。貫之がいかに不遇であったかが知られよう。945年9月,木工権頭(もくのごんのかみ)をもって卒した。その作品は上記の他に《新撰和歌》《自撰家集》《万葉五巻抄》《大堰川行幸和歌序》《貫之宅歌合》などがあり,勅撰に入集する和歌451首,他撰本《貫之集》その他を併せて総数1069首の和歌が残されている。
貫之にはその誠実な人柄から,伝説はきわめて少ない。勅許を得て和泉の国に創建した船守神社から帰京の途中,蟻通し明神の祟りを受けて馬がたおれたときに和歌を奉納した逸話(《袋草紙》,謡曲《蟻通》など),藤原公任が具平親王と人麻呂・貫之の優劣を論争したこと(《袋草紙》),順徳院が《八雲御抄》に〈貫之さしもなしなどいふ事少々聞ゆ。歌の魔の第一也〉と記していること,近代になって桂園派の観念的な歌風を打破しようとした正岡子規が,和歌の即興性を重んじた貫之を理解しえずして《歌よみに与ふる書》で〈貫之は下手な歌よみにて,古今集はくだらぬ集に有之候〉と極論したように,歌人としての貫之の評価にかかわるものばかりであった。
執筆者:萩谷 朴
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平安前期の歌人。『古今和歌集』の撰者(せんじゃ)として有名。また、『土佐日記』の作者、『新撰和歌』の編者でもある。三十六歌仙の一人。父は望行。宮中で位記(いき)などを書く内記の職などを経て、40歳代なかばでようやく従(じゅ)五位下となり、以後、930年(延長8)に土佐守(とさのかみ)に任じられるなど地方官を務めたが、最後は木工権頭(もくのごんのかみ)、従五位上に終わった。官人としてはそのように恵まれなかったものの、歌人としては華やかな存在であった。
早く892年(寛平4)の「是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)」、「寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおおんとききさいのみやのうたあわせ)」に歌を残すが、当時はまだそれほど目だつ存在ではなかった。『古今集』(905成立)撰者に任じられ、従兄(いとこ)友則(とものり)の死にあって指導的な役割を果たすこととなり、『古今集』の性格を事実上決定づける。集中第1位の102首を入れ、画期的な仮名序をものして、名実ともに歌界の第一人者となる。『古今集』以後の活躍は目覚ましく、そのころからことに盛行した屏風歌(びょうぶうた)の名手として、主として醍醐(だいご)宮廷関係の下命に応じて多数を詠作した。907年(延喜7)の宇多(うだ)法皇の大井川御幸には9題9首の歌と序文を献じ、913年には「亭子院歌合(ていじいんのうたあわせ)」に出詠する。この間、藤原兼輔(かねすけ)・定方(さだかた)の恩顧を受け、歌人としての地歩を固めている。土佐守在任中には『新撰和歌』を撰したが、醍醐天皇すでに崩じ、帰京後序を付して手元にとどめた。『土佐日記』は土佐からの帰京の旅から生まれた作品である。以後はもっぱら藤原権門の下命によって屏風歌の詠作に従って晩年に至る。
貫之の最大の功績は、『古今集』撰進を通じて国風文化の推進・確立を果たしたことである。漢詩文、『万葉集』の双方に深く通じて、伝統的な和歌を自覚的な言語芸術として定立し、公的な文芸である漢詩と対等な地位に押し上げた。『古今集』の仮名序では「心」と「詞(ことば)」という二面から和歌を説明し、初めて理論的な考察の対象とすることになった。和歌の理想を「心詞相兼」とすることは、後年の『新撰和歌』でいっそう確かなものになっている。もっとも、彼自身の歌は理知が勝って、情趣的な味わいに欠ける傾向がある。さらに注目すべきは、『土佐日記』により初めて仮名散文による文芸の可能性を示してみせたことである。
[菊地靖彦]
桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける
『萩谷朴校註『日本古典全書 新訂土佐日記――紀貫之全集』(1969・朝日新聞社)』▽『大岡信著『日本詩人選7 紀貫之』(1971・筑摩書房)』▽『村瀬敏夫著『紀貫之伝の研究』(1981・桜楓社)』
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(田中登)
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?~945
平安前・中期の歌人・日記文学作者。三十六歌仙の1人。望行(もちゆき)の子。宮廷文芸としての和歌の復興の気運のなかで歌壇に登場。905年(延喜5)紀友則・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑(みぶのただみね)とともに「古今集」の撰者をつとめ,優れた歌論でもある仮名序を記した。「古今集」に最多の102首をのせるほか,勅撰集入集は450首以上。歌合(うたあわせ)・屏風歌といった公的な詠進歌が多く,歌壇の第一人者として認められていた。930年(延長8)土佐守として赴任。その帰途をつづったのが「土佐日記」で,日記文学のみならず仮名文学全般の発展に多大の影響を与えた。家集「貫之集」。その他の作品に「大井川行幸和歌」の仮名序,「新撰和歌」の撰定と真名(まな)序など。
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…書名の由来も,伊勢(伊勢御(いせのご))の筆作にかかること,〈伊勢〉は〈えせ(似而非)〉に通ずること,巻頭に伊勢斎宮の記事があること,などをそれぞれ根拠に挙げる諸説があったが,なお不明である。作者も上の伊勢の説のほか,在原業平自記説もあり,紀貫之説も近年有力となりつつあるが,これまた特定は困難であろう。内容は諸本により若干の増減があるが,通行の天福本で全125段から成る。…
…完成奏覧は913年(延喜13)から914年の間である。撰者は紀友則,紀貫之,凡河内躬恒(おおしこうちのみつね),壬生忠岑(みぶのただみね)の4人で,友則は途中で没し編纂の主導権は貫之がとった。撰者の主張は序文に示され,〈やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける〉と仮名序の冒頭にいうように,創作主体としての人間の心を基本に据えるものである。…
…なお,それ以前には堺の南宗寺にあったという。古筆見(こひつみ)の鑑定では紀貫之筆とするが,《古今集》の撰者の自筆としようとしただけのことで,おそらくは院政時代の書であろう。真勝はこの色紙に,その歌の心をえがいた扇面を添え貼ったが,現在扇面も残っているものは多くない。…
…時代的に早い在原業平,小野小町,僧正遍昭らのいわゆる六歌仙の歌風は,優美典雅な王朝的豊麗さをたたえた世界であった。そして,紀貫之,紀友則ら選者たちの時代の短歌は,鮮明かつ明確さを求めた表現世界であった。規範性をもって後の時代に広く影響を及ぼしたのは,選者たちの歌風である。…
…平安中期,935年(承平5)ころ成立の作品。作者は紀貫之。934年12月21日,新任の国司島田公鑒に国司の館を明け渡して大津に移った前土佐守紀貫之は,27日大津を出帆し,鹿児崎(かこのさき),浦戸,大湊,奈半(なは),室津,津呂,野根,日和佐(ひわさ),答島(こたじま),土佐泊,多奈川,貝塚,難波,曲(わた),鳥飼,鵜殿,山崎と,船路の泊りを重ね,翌年2月16日ようやく京のわが家へ帰り着いた。…
※「紀貫之」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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