古今和歌集(読み)コキンワカシュウ

デジタル大辞泉 「古今和歌集」の意味・読み・例文・類語

こきんわかしゅう〔コキンワカシフ〕【古今和歌集】

最初の勅撰和歌集八代集の第一。20巻。延喜5年(905)の醍醐天皇の命により、紀貫之きのつらゆき紀友則きのとものり凡河内躬恒おおしこうちのみつね壬生忠岑みぶのただみねが撰し、同13年ころ成立。六歌仙・撰者らの歌約1100首を収め、仮名序真名序が添えられている。歌風は、雄健でおおらかな万葉集に比べ、優美・繊細で理知的。古今集。

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共同通信ニュース用語解説 「古今和歌集」の解説

古今和歌集

最初の勅撰ちょくせん和歌集。20巻。平安時代の905年、醍醐天皇の勅命により、紀貫之きのつらゆき紀友則きのとものり凡河内躬恒おおしこうちのみつね壬生忠岑みぶのただみねが万葉集以後の名歌を編集した。四季の自然と恋を題材にしたものを中心に、歌数は約1100首。

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精選版 日本国語大辞典 「古今和歌集」の意味・読み・例文・類語

こきんわかしゅうコキンワカシフ【古今和歌集】

  1. 平安初期の最初の勅撰和歌集。二〇巻。延喜五年(九〇五)醍醐天皇の勅命により、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒壬生忠岑の撰。延喜一四年頃の成立とされる。読人知らずの歌と六歌仙、撰者らおよそ一二七人の歌一一一一首を、四季、恋以下一三部に分類して収めたもの。貫之執筆の仮名序と紀淑望執筆の真名序が前後に添えられている。短歌が多く、七五調、三句切れを主とし、縁語、掛詞など修辞的技巧が目だつ。優美繊細で理知的な歌風は、組織的な構成とともに後世へ大きな影響を与えた。古今集。古今。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「古今和歌集」の意味・わかりやすい解説

古今和歌集
こきんわかしゅう

平安時代初期に成った、最初の勅撰(ちょくせん)和歌集。略して『古今集』ともいう。

鈴木日出男

編者・成立

醍醐(だいご)天皇の勅命によって、紀貫之(きのつらゆき)、紀友則(とものり)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)が撰者として編集にあたった。成立は延喜(えんぎ)5年(905)か。ただし、これを天皇の編集の命令の下った年とみる説もあり、一定しない。

[鈴木日出男]

構成

歌数は1100首。ただし、巻末に11首の墨滅歌(すみけちうた)(もとの状態がわかるように墨で消して削除した歌)を付す。全20巻に、次のような部立(ぶだて)(歌の内容上の部類)を配す。春上下(2巻)、夏、秋上下(2巻)、冬、賀(老齢をたたえ祝う歌など)、離別(官人の地方赴任に際しての送別の歌が中心)、羇旅(きりょ)(官人の旅中の歌が中心)、物名(もののな)(物の名称を隠し題として詠み込んだ歌)、恋1~5(5巻)、哀傷(人の死を悲しむ歌)、雑(ぞう)上下(老齢や無常を嘆く歌が中心)、雑躰(ざったい)(長歌、旋頭歌(せどうか)、誹諧歌(はいかいか)〈滑稽諧謔(こっけいかいぎゃく)味のある歌〉などを集める)、大歌所御歌(おおうたどころのみうた)その他の儀式歌。その分量からいっても、四季の自然の歌と、恋の歌が中心を占めている。それぞれの部立内に、歌々が、時間的な進行と多様な照応関係に秩序だてられながら、整然と配されている。その歌集としての構成法も、後世の歌集の規範とされた。

[鈴木日出男]

仮名序・真名序

この集には、紀貫之によって仮名散文で書かれた仮名序(かなじょ)と、紀淑望(よしもち)によって漢文で書かれた真名序(まなじょ)が付されている。通説では、まず仮名序が書かれ、のちにそれが漢文に翻案されたとする見方が有力である。両序の内容は、叙述の順序や細部において差違はあるものの、ほぼ一致しており、和歌の本質、起源、六義(りくぎ)(詠法の分類)、六歌仙評、撰集経緯などに触れている。これは、歌論としても後世に大きな影響を与えた。

[鈴木日出男]

歌人たち

所収の歌々を時代別にみると、(1)読人(よみびと)しらずの時代、(2)六歌仙時代、(3)撰者時代の3期に分けられる。

(1)奈良末期から次の六歌仙時代に至るまでの時期で、歌中で読人しらずとされる歌のほとんどがこれにあたる。ただし、読人しらずの歌のなかには、あえて名を隠すための処置とみられる場合も含まれるので、すべてがこの時期とは限らない。おおむねこの時期の歌には、『万葉集』の遺風が感じられる。恋歌が多く、前代以来の枕詞(まくらことば)、序詞(じょことば)を用いた歌が少なくない。

(2)清和(せいわ)朝から光孝(こうこう)朝(858~886)ごろの時代。六歌仙とよばれる僧正遍照(遍昭)(へんじょう)、在原業平(ありわらのなりひら)、小野小町(おののこまち)、大友黒主(おおとものくろぬし)、僧喜撰(きせん)、文屋康秀(ふんやのやすひで)の活躍した時期であるが、実際に多くの優れた歌を残したのは、遍照、業平、小町の3人だけである。ほかに、小野篁(たかむら)、在原行平(ゆきひら)(業平の異母兄)、源融(とおる)、やや遅れて大江千里(おおえのちさと)、藤原敏行(としゆき)、菅原道真(すがわらのみちざね)らがいた。これは古今集時代の本格的に開始する時期にあたり、歌合(うたあわせ)がおこるのもこのころであった。表現にも縁語、掛詞(かけことば)や見立ての技法が駆使され、斬新な歌風が示された。

(3)宇多(うだ)・醍醐朝(887~930)で、前掲の4人の撰者たちのほかにも、伊勢(いせ)(女流歌人)、素性(そせい)法師、清原深養父(ふかやぶ)、坂上是則(さかのうえのこれのり)、藤原兼輔(かねすけ)らが活躍した。このころは、歌合のみならず屏風歌(びょうぶうた)も盛んとなり、宮廷社会における和歌の重要性も一段と高まった。古今集歌風の完成の時期にあたる。

 なお、歌人別に『古今集』所収の歌数を数えると、貫之102、躬恒60、友則46、素性36、業平30、忠岑36、伊勢22、の順になる。

[鈴木日出男]

古今集時代と和歌の性格

『万葉集』ののちも、和歌を詠むという営み自体絶えたのではなく、晴れがましい場での詠歌こそ衰えたものの、私的な関係では、やはり詠み交わされていた。しかし9世紀なかばに至ると、貴族社会では、それまでとくに男子官僚たちの間で盛んであった漢詩文が衰え、和歌の再興する機運をみせ始めた。前述の六歌仙時代の到来である。これは、漢詩文隆盛の背景にあった律令(りつりょう)再編成の気運が薄れ、藤原氏による摂関制が開始する時期とほぼ対応している。初期摂関制の担い手となった藤原良房(よしふさ)や基経(もとつね)らは、明子(あきらけいこ)(良房の娘、文徳(もんとく)天皇の女御(にょうご)となって後の清和(せいわ)天皇を産んだ)、高子(たかいこ)(基経の妹、清和天皇の女御となって後の陽成(ようぜい)天皇を産んだ)ら自家の子女を次々と天皇の后(きさき)として送り込み、皇室との血縁関係をなかだちとして政治の実権を掌握するようになる。そのために、后たちの集団である後宮(こうきゅう)が政治的にも文化的にもにわかに重要な場となった。皇族や貴族たちも交流しあうその場では、和歌が社交的な性格を帯びながら活発に詠まれるようになる。もとより漢詩が男子官僚に限られるのに対して、和歌は男女の区別なくつくれる詩形である。この和歌の社交的な性格から、人々の交際においても和歌が挨拶(あいさつ)、文通の役割を果たし、左右に分かれて歌の優劣を競う歌合や、宮廷や貴族の室内を飾る屏風歌も行われるようになった。

 しかし他面では、この時代の和歌もまた、叙情詩本来の性格として自分自身の感情を表そうとするのは当然である。とくに、摂関家繁栄のための打算から、とかく閉塞(へいそく)的になりがちな社会にあって、和歌は、その孤立しがちな個人の心情を一面として取り込めようとする。したがってこの時代の和歌は、一面では貴族的に洗練された美の世界にふけることを通して他者と交流しながら、一面では他者と相いれない自己の孤心を見つめるという、二重性をもっていた。たとえば、「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」(小野小町)の、桜花の散るのを惜しむ耽美(たんび)の心に自己の生涯の憂愁を言い込めた表現。「ひさかたの光のどけき春の日に静心(しづごころ)なく花の散るらむ」(紀友則)の、春爛漫(らんまん)のなかにえたいの知れぬかげりを感取した表現。このように、協調と孤心の二重性を統一づけようとする緊張的な詩性こそ、『古今集』最大の特徴であるともいえる。

[鈴木日出男]

『古今集』の歌風と表現

前記のような和歌の性格からも、その表現の特徴は、物事を事実どおりに詠むのではなく、この時代共通の典型的美意識の枠組みのなかに再構成する点にある。実際の物事を再構成するのであるから、その作用は理知的であり、できあがった世界は観念的である。こうした表現を確保するために、前代以来の枕詞、序詞のほかに、新たに掛詞、縁語、見立て、擬人法、歌枕などの表現技法も生み出された。これらによって、複雑な文脈を構成しながら、しかも鮮明なイメージを形象させている。この理知的な作用による観念的な再構成は、前代の『万葉集』の表現とはまるで相違した歌風の歌々を出来(しゅったい)させた。「仮名序」の和歌本質論によれば「和歌(やまとうた)は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」とある。和歌表現を〈心〉と〈詞(ことば)〉の2要素に分析して、二つは別次元のものとした。「心詞二元論」とよばれる考え方で、〈心〉がそのまま〈詞〉にはならず、〈詞〉がそのまま〈心〉を伝えるとは限らないとする。〈心〉は表現上のくふうを凝らして、初めて〈詞〉に封じ込められるという点から、前記の表現技法も案出されたとみられる。たとえば、「冬枯れの野辺とわが身を思せば燃えても春を待たましものを」(伊勢)は、「思」と「火」の掛詞、それと「燃え」が縁語の関係。自分のうらぶれた身を冬枯れの野辺と見立ててみるが、ほんとうにそうなら野火の燃え過ぎたあとに希望の春もめぐろうが、自分にはまったく期待できないとする、荒寥(こうりょう)たる心象風景となっている。「桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける」(紀貫之)は、風の吹き散らしたあとも花びらがちらちら空中を舞うさまを、「水なき空に波」が立つと見立てた。それによって、華麗な時の過ぎ去ったあとの空虚さがよく表されている。また『古今集』では、時間の推移を取り込む表現も多い。『万葉集』の歌がおおむね人間の感情を瞬間的にとらえているのに対して、ここには人生史への回顧という方法がみられる。それはしばしば物語的な関心をさえ呼び覚ますことになる。たとえば、「有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし」(壬生忠岑)など、恋の別れの過去が現在をも規制しているような表現になっている。

[鈴木日出男]

影響

『古今集』は、後の王朝和歌に対して規範的な役割を果たしたのみならず、物語文学にも引き歌や歌ことばなどを通して多大の影響を与えた。藤原俊成(しゅんぜい)・定家(ていか)など中世歌人にも尊重され、彼らの幽玄の歌風もこれを基盤として達成されたとみられる。近世では香川景樹(かがわかげき)の桂園(けいえん)派によって『古今集』が称揚された。近代に入ると、明治期の正岡子規(まさおかしき)が詩歌の近代化のために『古今集』の観念的歌風を激しく罵倒(ばとう)したが、現在ではその価値が再評価されている。

[鈴木日出男]

諸本

現在広く流布しているのは、藤原定家筆写の系統で、(1)貞応(じょうおう)二年本(二条家相伝)、(2)嘉禄(かろく)二年本(冷泉(れいぜい)家相伝)、(3)伊達(だて)家本。ほかに完本として現存最古の元永(げんえい)本、俊成本がある。さらに、古筆切(こひつぎれ)として40種ほどの断簡も伝わっている。

[鈴木日出男]

『窪田空穂著『古今和歌集評釈』上下(1935、1937・東京堂)』『竹岡正夫著『古今和歌集全評釈』上下・補訂版(1981・右文書院)』『佐伯梅友校注『日本古典文学大系8 古今和歌集』(1958・岩波書店)』『小沢正夫校注・訳『日本古典文学全集7 古今和歌集』(1971・小学館)』『小沢正夫他校注・訳『完訳日本の古典9 古今和歌集』(1983・小学館)』『奥村恒哉校注『新潮日本古典集成 古今和歌集』(1978・新潮社)』『『古今和歌集』(窪田章一郎校注・角川文庫/片桐洋一訳注・創英社・全対訳日本古典新書/佐伯梅友校注・岩波文庫/小町谷照彦訳注・旺文社文庫/久曽神昇校注・全4巻・講談社学術文庫)』『小沢正夫著『古今集の世界』(1980・塙書房)』『松田武夫著『古今集の構造に関する研究』(1980・風間書房)』『藤平春男他著『古今和歌集入門』(有斐閣新書)』『秋山虔他著『王朝秀歌選』(1982・尚学図書)』

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改訂新版 世界大百科事典 「古今和歌集」の意味・わかりやすい解説

古今和歌集 (こきんわかしゅう)

醍醐天皇の詔により撰ばれた最初の勅撰和歌集。略称は《古今集》。20巻。古今とは〈いにしえ〉〈いま〉の歌の集の意と,後世の人々が,和歌が勅撰された延喜の時代をいにしえの和歌の聖代と仰ぎ見るであろう,の意を兼ねる。流布本では巻首に仮名序,巻尾に真名(まな)序を付し,歌数は1111首(重出歌1首を含む)。長歌5首,旋頭(せどう)歌4首を含むが,他はすべて短歌。分類は春,夏,秋,冬,賀,離別,羈旅(きりよ),物名,恋,哀傷,雑,雑体(長歌,旋頭歌,誹諧),大歌所御歌とする。この形式は以後の勅撰集に基本的に継承された。

 平安時代の初期は唐風文化の極盛期で,勅撰漢詩集も3回編纂され,漢詩文が隆盛となって,和歌は衰微した。しかし,894年(寛平6)遣唐使が停止されたころから国風文化が徐々に育ってくる。平仮名で書かれた《古今集》が勅撰されたのはその最初の大事業であった。それまで恋愛の場など日常生活に埋没していた和歌は晴れの場所を与えられることになった。

仮名序によれば,詔は延喜5年(905)4月18日に発布された。完成奏覧は913年(延喜13)から914年の間である。撰者は紀友則,紀貫之,凡河内躬恒(おおしこうちのみつね),壬生忠岑(みぶのただみね)の4人で,友則は途中で没し編纂の主導権は貫之がとった。撰者の主張は序文に示され,〈やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける〉と仮名序の冒頭にいうように,創作主体としての人間の心を基本に据えるものである。両序は主として《毛詩大序》を基盤として書かれており,全体に中国文学論の影響は大きい。しかし,〈この歌天地ひらけ初まりける時より出できにけり〉(仮名序)というように,《日本書紀》によりつつ,和歌は天地創造とともにあり,わが国に固有の起源を有するとする主張も結合されている。詩は中国では士大夫の必須の教養であったが,撰者は和歌にそれと同様の位置を与えようとしたのである。集中の作者はすべて127人,代表的歌人は4人の撰者のほか,六歌仙(僧正遍昭,在原業平,文屋康秀,喜撰法師,小野小町,大友黒主),伊勢,素性法師らがあげられる。〈読人しらず〉の作は全体で6割にも達し,おおむね伝承歌的な色彩があり,かなり古い時代の作を含んでいると考えられている。

《古今集》の歌風を総合的に見れば平明で,感動の直叙を好まず(《万葉集》の対極),また,言外の余情を好まず(《新古今集》の対極),内容にも形式にも平衡感覚が優先し,輪郭がはっきりした表現を旨とする。歌材も激発する感情や豪宕(ごうとう)な自然は好まれず,平穏な日常的自然や生活が中心である。言語は古典的規範文法が厳格に適用されて歌意の誤解を許さない。語彙もよく選択され俗語を排除し,一方,縁語や懸詞が発達して現実の外に小宇宙を構成する。そのことを藤原定家は,〈むかし貫之,歌の心たくみに,たけおよびがたく,言葉つよく,姿おもしろき様を好みて,余情妖艶の体をよまず〉(《近代秀歌》)と評した。〈むすぶ手の雫に濁る山の井の飽かでも人に別れぬるかな〉(巻八,離別歌,貫之)は平明な内容と明晰な語法で《古今集》を代表するものである。藤原俊成は〈おほかた全て言葉事の続き,姿,心,限りもなき歌なるべし。歌の本体はただこの歌なるべし〉(《古来風体抄》)と激賞したが,古今風の特色をよくとらえた批評というべきである。〈立ち別れ因幡の山の峯に生ふる松とし聞かば今帰り来む〉(巻八,離別歌,在原行平)は,因幡と〈去(い)なば〉を懸け,松は〈待つ〉と懸けた懸詞である。懸詞は,縁語とともに《万葉集》ではほとんど使用されず,《古今集》において発達した技巧である。

 早く藤原俊成が〈万葉集は時代久しく隔たり移りて,歌の姿,言葉うちまかせてまなび難かるべし。古今の歌こそは歌の本体と仰ぎ信ずべきもの〉(《古来風体抄》)と述べたごとく,後世から第一の古典と仰がれ,和歌の世界ばかりでなく,散文の文飾にも《古今集》を引くことが多かった。また,造形美術も表現の類型を《古今集》に求めるなど,わが国古典文化の中枢として扱われ,ひろく日本的感性を培ってきた。しかし,近代になると短歌の革新を唱える正岡子規により〈古今集はくだらぬ集〉(《歌よみに与ふる書》)と批判されるに至った。

《古今集》は多数の古写本が残り,平安時代にさかのぼるものも少なくない。全巻揃った本で最も古い本は元永3年(1120)書写の元永本古今集である。書写の古いものは伝紀貫之筆と称する高野切(こうやぎれ)古今集で,これは部分的に存する断簡である。その他,伝小野道風筆継色紙,伝藤原行成筆升色紙など,断片であるが種類は多い。いずれも名筆で仮名書道の淵叢であり,古典である。流布本の《古今集》は藤原定家の校訂書写の本の流れである。定家本はいくつかあるが,貞応2年(1223)の奥書のある本が最も流布した。

 平安時代の末の歌学の隆盛期,《綺語抄》《無名抄》《奥儀抄》《袖中抄》などの歌学書はその大きな部分を《古今集》の考察にあてている。これらは実作者の参考に供する目的での解説である。注釈書は藤原教長の《古今集註》が最も古く,治承(1177-81)ころの作である。ついで顕昭の《古今集註》がある。これは1191年(建久2)に完成し12巻と大きく,現在散逸した資料も多く用いた詳細なもので研究上重要である。その後研究と注釈はいわゆる〈古今伝授〉と呼ばれる伝授的な方向に吸収される。先輩の説を伝えることを目的とし,藤原基俊,藤原定家の秘説を伝授すると称し,外形を真言秘密の伝授や神道伝授から借り,複雑な儀式をともないながら受けつがれ,近世に至る。内容は必ずしも高くないが,朗詠の譜や歌会の故実などまで広く含み,戦後乱世を通じて学芸の保持,伝達に果たした役割は大きい。中世の研究は北村季吟《八代集抄》(1679-81成立)に総括され,近世の研究に基礎を提供した。契沖の《古今余材抄》(1692成立)は近世的な科学的研究を開始した重要な研究であり,本居宣長《古今和歌集遠鏡(とおかがみ)》(1794成立)は最初の口語訳である。香川景樹《古今和歌集正義》(1835刊)は近世の最もすぐれた《古今集》研究である。明治以後の業績は古写資料の公刊と整理が大きい。第2次大戦後の西下経一《古今集の伝本の研究》(1954)は古写本の系統論的研究の模範的な作で,以後の研究の基礎を置いた。久曾神昇《古今和歌集成立論》4冊(1960-61)は多くの資料を収集,整理して詳細な解説を付し,独自の見解を加えたもので,《古今集》の研究はここに資料的基礎が置かれた。
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百科事典マイペディア 「古今和歌集」の意味・わかりやすい解説

古今和歌集【こきんわかしゅう】

平安前期,最初の勅撰和歌集。20巻。歌数約1100首。905年醍醐天皇の命を受けて紀友則紀貫之凡河内躬恒壬生忠岑が撰者となって編纂。少数の長歌旋頭歌の他はすべて短歌。巻首に貫之作の〈仮名序〉,巻尾に紀淑望作の〈真名(まな)序〉をおき,分類は,春,夏,秋,冬,賀,離別,羈旅(きりょ),物名,恋,哀傷,雑,雑体(長歌,旋頭歌,誹諧),大歌所御歌。おおむね伝承歌的な色彩をもつ〈読人しらず〉の作も多く含んでいるが,歌人としては4人の撰者や,遍昭在原業平らの六歌仙などが代表的。平明優雅な歌風は古今調として後世和歌の範とされ,整然とした体裁は基準としてその後の勅撰集にも踏襲された。→古今伝授
→関連項目東歌伊勢宇治宇治橋歌よみに与ふる書延喜・天暦の治縁語小野小町香川景樹歌仙歌論熊谷直好高野切古今和歌集仮名序古今和歌六帖古来風体抄三代集時雨亭文庫新古今和歌集新撰菟玖波集寸松庵色紙雑歌相聞題詠勅撰和歌集継色紙菟玖波集東常縁二十一代集俳諧八代集挽歌平仮名物名六義琉歌和歌所

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「古今和歌集」の意味・わかりやすい解説

古今和歌集
こきんわかしゅう

平安時代前期の最初の勅撰和歌集。 20巻。歌数 1095首余。醍醐天皇の命により,紀友則 (きのとものり) ,紀貫之 (つらゆき) ,凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね) ,壬生忠岑 (みぶのただみね) が撰集にあたった。成立年について,延喜5 (905) 年に一応完成して奏上したとする説,その年に勅命を受け,同 13~14年頃完成とする説に分れる。春 (上下) ,夏,秋 (上下) ,冬,賀,離別,羇旅,物名,恋 (一~五) ,哀傷,雑 (上下) ,雑体,雅に部立されている。仮名,真名 (漢文) の序が付せられ,その内容は歌論史的にも大きな意義がある。歌は時期的に,詠み人知らず,六歌仙,撰者の時代に区分され,撰者の歌が最も多く,ほかに素性 (そせい) 法師在原業平伊勢小野小町遍昭 (へんじょう) なども多い。『古今集』は和歌を宮廷文学として確立し,その体系,表現,美意識は,以後の文学史の展開に大きな影響を与えた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「古今和歌集」の解説

古今和歌集
こきんわかしゅう

最初の勅撰和歌集。20巻。撰者は紀友則・紀貫之(つらゆき)・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑(みぶのただみね)。紀貫之の仮名序と,紀淑望(よしもち)の真名(漢文)序がある。905年(延喜5)醍醐天皇の勅により撰集が開始されたとも,成立したともいわれる。およそ1100首を,春上下・夏・秋上下・冬・賀・離別・羈旅(きりょ)・物名(もののな)・恋1~5・哀傷・雑上下・雑体・大歌所御歌(おおうたどころのおんうた)の部立にわけ,以後の勅撰和歌集編集の規範となった。「万葉集」以後約1世紀にわたる120余人の和歌を収録。読人知らず時代・六歌仙時代・撰者時代の3時期に区分される。優美繊細な歌風で,七五調三句切が多い。理知的で懸詞(かけことば)・縁語・比喩・擬人法などの技巧を用いて婉曲に表現。四季の美意識や心情表現の方法など日本的なものの原形がみられる。貴族の基本的な教養として重んじられ,「源氏物語」など散文の作品にも多大な影響を及ぼした。「日本古典文学全集」「新潮日本古典集成」所収。

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旺文社日本史事典 三訂版 「古今和歌集」の解説

古今和歌集
こきんわかしゅう

平安中期,日本最初の勅撰和歌集
略称『古今集』。20巻。歌数約1100首。醍醐 (だいご) 天皇の勅により編集を始め,905(延喜5)年撰進された。撰者は紀貫之・凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね) ・紀友則・壬生忠岑 (みぶのただみね) ら。『万葉集』に入らなかった古歌とそれ以後の新しい歌を集大成したもので,巻頭に貫之の「仮名序」,巻尾に紀淑望 (よしもち) の「真名序」を置く。歌風は七五調・体言止めが多く,優美典雅,理知的で機知を尊ぶ。のちの勅撰和歌集の理想となった。代表的歌人としては撰者らのほかに六歌仙がいる。

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とっさの日本語便利帳 「古今和歌集」の解説

『古今和歌集』

第一勅撰和歌集。紀友則、紀貫之、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)撰。成立は、延喜五(九〇五)年、同一四(九一四)年など諸説がある。全二〇巻で総歌数は一一〇〇余。歌風は繊細にして優美、四季の歌、恋の歌が過半数を占める。撰者以外の歌人は、在原業平、藤原敏行、小野小町など。

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防府市歴史用語集 「古今和歌集」の解説

古今和歌集

 日本ではじめて天皇の命令によってつくられた和歌集です。約1100首の和歌が、テーマごとに収められています。紀貫之[きのつらゆき]や凡河内躬恒[おおしこうちのみつね]などが和歌を選びました。

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世界大百科事典(旧版)内の古今和歌集の言及

【歌論】より

…以降への影響は,したがって小さくはない。 平安時代に入って,まず《古今和歌集》(905成立)の序文がある。序には,仮名序と真名序の2通りがあって,両者の間には微妙なちがいがあるが,基本的内容はほぼ同じである。…

【季語】より

…一定の季節と結びつけられて,連歌,俳諧,俳句で用いられる語を季語(または季題)という。少数の語の季語化は,《古今和歌集》以下の勅撰和歌集でなされていたが,季語化の意識が強くなったのは,四季の句をちりばめて成立する連歌においてである。連歌の季語化は,和歌によって培われた情趣にもとづき,季語としての内容(本意(ほい))を確定するものであった。…

【高野切】より

…古筆切の最も有名なものの一つで,《古今和歌集》の巻子本(かんすぼん)を切ったもの。現在,巻一,二,三,九,十八,十九の6巻の分が残っている。…

【古今伝受(古今伝授)】より

…《古今和歌集》に関する秘伝の授受。中世の学問芸能では,特に重要な部分を秘伝として伝承することが多かった。…

【短歌】より

…この時代の短歌には,5・7/5・7/7というかたちで2,4句で切れるいわゆる五七調の歌が比較的多い。
[中古]
 10世紀初頭に《古今和歌集》が成立して短歌史の流れは大きく変わる。勅撰集の時代に入るのである。…

【六歌仙】より

…《古今和歌集》の序に論評された6人の歌人。《万葉集》の後,和歌の道はまったくおとろえていたが,その時期に〈いにしへの事をも歌をも知れる人,よむ人多からず。…

【和歌】より

…〈からうた〉(中国の詩)に対する〈やまとうた〉(日本の歌)の意であり,〈倭歌〉と書くこともあった。実際にその指すところは短歌であることがほとんどであるが,長歌,旋頭歌,片歌などの伝統的定型詩をも含めて和歌と呼んでいる。ただし歌謡,連歌,俳諧,俳句,近代詩は和歌に含めることはなく,また,近代以後の短歌も和歌と呼ぶことは少ない。以上が,現在一般的に用いられている意味での〈和歌〉の定義である。しかし細かく言えば,時代的にその意味するところは移ってきている。…

※「古今和歌集」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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