歌合(読み)うたあわせ

精選版 日本国語大辞典 「歌合」の意味・読み・例文・類語

うた‐あわせ ‥あはせ【歌合】

〘名〙
① 歌の作者を左右に分け、その詠んだ歌を各一首ずつ組み合わせて、判者(はんじゃ)が批評、優劣を比較して勝負を判定した一種の文学的遊戯。平安初期以来宮廷や貴族の間で流行した。歌競べ。歌結び。
※古今(905‐914)春上・一二・詞書「寛平御時きさいの宮の歌合のうた」
※随筆・守貞漫稿(1837‐53)二五「歌合 つい松とも云」

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改訂新版 世界大百科事典 「歌合」の意味・わかりやすい解説

歌合 (うたあわせ)

短歌を左右1首ずつ組み合わせ,優劣を争う文学的行事。まれには3首を合わせたこともあり,歌人単位に複数の短歌を並記して比較することもあった。

歌う心と競う心と判(ことわ)る心とが結びつけば歌合はいつでも成立しえたはずであるが,万葉時代にもなく,和歌が書き読む文学となって文献に記録されるようになった平安朝初期にもなかった。北家藤原氏の摂関政治を抑えるために和歌をはじめ朝儀,国風を作興した光孝天皇の仁和年間(885-889)に初めて現存最古の《民部卿行平家歌合》(《在民部卿家歌合》)が出現したことと,歌合の行事形式が相撲節会すまいのせちえ)に酷似していることとからして,いわば歌相撲といった興味から始められたものとさえ考えられる。

主催者の地位によって,内裏,仙洞,后宮,女院,女御,御息所,親王,内親王,斎宮,斎院,大臣,納言,参議,雲客,地下,女宅,僧房,神社などに分ける階級的規準があり,さらに歌合の興味の所在によって,歌を伴う物合,物合を伴う歌合,物を伴う歌合,純粋歌合と縦に大別し,これを題材によって横に細分して,根合,前栽合女郎花合,撫子合,菊合,紅葉合,貝合,虫合,鳥合,獣合,職人合,石合,百和香合,扇合,絵合,草子合,小箱合,謎合,物語合,艶書合,問答合,詩歌合連歌合などに分ける素材的規準がある。また当座歌合,兼日歌合,撰歌合,時代不同歌合,自歌合,擬人歌合など,歌人関与のあり方を規準として区分することもあって,歌合の分類は多岐複雑である。

 またその構成は,人的構成にのみ限っていうと,王朝晴儀の典型的な歌合にあっては,方人(かたうど)(左右の競技者),念人(おもいびと)(左右の応援者),方人の頭(とう)(左右の指導者),読師(とくし)(左右に属し,各番の歌を順次講師に渡す者),講師(こうじ)(左右に属し,各番の歌を朗読する者),員刺(かずさし)(左右に属し,勝点を数える少年),歌人(うたよみ)(和歌の作者),判者(はんじや)(左右の歌の優劣を判定する者。当代歌壇の権威者または地位の高い者が任じる)などのほか,主催者や和歌の清書人,歌題の撰者などが含まれる。

(1)第1期(885-1107) 光孝天皇の遺志を継いだ宇多天皇が,摂関政治を抑圧して朝廷の権威を高める手段として,和歌再興の文化政策をいっそう効率的に推進したが,もっぱら菅原道真が中心となって勅撰和歌集の編纂が企画され,その予備行為としてまず《新撰万葉集》を撰ぶに際して,《寛平后宮歌合(かんぴようのきさいのみやのうたあわせ)》や《是貞親王家歌合》など100番・50番の大規模な歌合がその撰歌の場として催された。宮廷におけるこれらの歌合の開催は,漢詩文隆盛の平安朝初期に,沈滞していた詠歌への意欲を刺激して,次の醍醐天皇の代に《古今和歌集》(905)を成立させるにいたるのであるが,歌合も頻繁に催され,晴儀としての歌合の形式は急速に整い,913年(延喜13)の《亭子院歌合》を経て,960年(天徳4)の《天徳内裏歌合(てんとくのだいりのうたあわせ)》にいたって最初の完成に達した。このころには,宇多・醍醐・村上3帝を中心とした内裏,後宮の晴儀の歌合,陽成院やその皇子たち,専門歌人たちによる文芸本位の私的な歌合,朝廷主導の晴儀歌合に背を向けた摂関大臣家の隠逸的な前栽歌合が,特徴的な3派を形成していた。そのころの代表的な歌合には,上記のほかに,《内裏菊合》(913,953),《京極御息所歌合》(921),《右大臣師輔家歌合》(956)などがある。冷泉天皇以後,摂関藤原氏が権力をもっぱらにするにつれて,政権をめぐる激しい対立抗争は,公家社会における協調融和の気運を冷却し,歌合は極度に衰微して,一条朝の藤原道長時代には《枕草子》《源氏物語》など個人の才能による個性的な作品が文壇を領導し,歌合も藤原公任撰の《前十五番歌合》や《三十六人撰》,花山院撰の《後十五番歌合》,具平親王の《三十人撰》のような,もっぱら評論意識による机上の選択にまかされることとなった。伝統的な歌合としては,《斎宮規子内親王家前栽合》(972),《左大臣頼忠家前栽合》(977),《左大臣道長家歌合》など,隠逸的な前栽合や歌会に近い形式のものに偏していた。ところが外戚政策の失敗から摂関政治に危機が訪れると,摂関藤原氏各家は一転して協力態勢を取り始め,後朱雀・後冷泉朝の藤原頼通(よりみち)時代には,内裏・後宮・内親王家の遊宴的な歌合が空前の盛行を招くにいたった。この機運が仮名書道の完成と相まって史上初の歌合文献集成としての10巻本の《歌合》(藤原頼通主宰,源経信監修)を完成させた。このころの代表的なものには,《上東門院菊合》(1032),《左大臣頼通家歌合》(1035),《祐子内親王家歌合》(1050),《斎院禖子内親王家物語合》(1055),《皇后寛子宮歌合》(1056)などがある。ついで後三条・白河両帝は再び摂関政治抑圧の政策をとり,白河院政が始まるに及んで,摂関藤原氏と六条源氏とが結んで堀河朝廷を擁護し晴儀遊宴の歌合を維持しようと努めたが,院司勢力による文芸本位の歌合の中世化はすでにきざし始めていた。《和歌合抄》(堀河主宰,源雅実監修?)の編纂は,むしろ懐古的なものでしかなかった。《内裏歌合》(1078),《郁芳門院根合》(1093),《前関白師実家歌合》(1094)などは王朝的な歌合の残照である。第1期の晴儀遊宴の歌合においては,通例,和歌の作者たる歌人の地位は低くて方人の陰にかくれており判者や判詞もきわめて形式的で,さほど重視されてはいなかったが,白河院政が始まって以後は,純粋に文芸評論を闘わす傾向が強まってきた。

(2)第2期(1107-92) 院政が進行し院側近の中流貴族が実権を握るにつれて,歌合の本質はまったく変わってきた。前期末に未完成であった《和歌合抄》を増補して20巻本の《類聚歌合》を完成させたのは堀河朝廷の後見者であった源雅実の甥に当たる摂関藤原氏の当主内大臣藤原忠通(ただみち)である。忠通はきわめて温和な人物で,中世的な文芸本位の歌合の時流にも逆らわずみずからも盛んに歌合を催して,源俊頼,藤原顕季,藤原基俊ら革新・中立・保守3派の判者を巧みに操縦して歌合歌論を盛り上げることに成功した。このころの歌合はすでに方人が同時に歌人であることが常になり,主催者すらが歌人として方人の列に加わって,晴儀歌合としての行事形式を棄却して,判者を中心に歌論を闘わす文芸精進の場と化したのである。歌合史の中世はここに始まり,判者の地位の向上,歌合主催者として中流貴族や僧侶の進出が著しかった。このころの代表的な歌合には,《雲居寺結縁経後宴歌合》(1116),《内大臣忠通家歌合》(1118,1119,1121),《永縁奈良房歌合》(1124?),《中宮亮顕輔家歌合》(1134),《右衛門督家成家歌合》(1149)などがある。保元の乱(1156)を境として,こうした中世的傾向はいっそう顕著となるが,治安,経済の不安は歌合から行事としての空間的時間的要素をすら奪うこととなった。構成人員の集合もしばしば不可能となって,すべてをひそかに計画し,左右に番(つが)った和歌を書き記した巻物を判者にゆだねて判詞を記入させ,後日その結果を関係歌人に報告するといった窮屈な情況でさえあったから,文学行事としての歌合はまったく変質してしまったといわねばならない。このころの代表的なものには,《中宮亮重家家歌合》(1166),《太皇太后宮亮経盛家歌合》(1167),《広田社歌合》(1172),《賀茂別雷社歌合》(1178),《右大臣兼実家歌合》(1179),《西行自歌合》(1187,1189)などがある。判者としての藤原俊成藤原清輔,藤原顕昭らの歌論,歌合の安全な場としての神社の利用などが注目される。藤原清輔の《袋草紙遺編》(1159以前成立)は歌合の構成を体系的に論じた最初の研究である。

(3)第3期(1192-1242) 鎌倉時代にはいって,歌合は空前の盛況を見せた。源頼朝の幕府が全国を統一して平和が回復したことと,政権を朝廷に奪回しようとの後鳥羽上皇の意欲とが,公家社会に対する精神作興策としての歌合をしきりに催すこととなる。1201年から翌年にかけて催された《千五百番歌合》を撰歌の場として《新古今和歌集》の編纂に到達したことは,歌合史最初期における宇多天皇の朝威宣揚の文化政策と揆を一にしている。勅撰和歌集が《古今集》に始まって《新古今集》に完成したのと同じく,歌合の歴史もここで一回転したのである。このころの代表的なものには,《千五百番歌合》のほかに,《六百番歌合》(《左大将良経家六百番歌合》1193),《慈鎮和尚自歌合》(1198ごろ),《老若五十首歌合》《人麿影供歌合》《和歌所八月十五夜撰歌合》(以上1201),《源氏物語歌合》(1202ごろ)などがある。判者としての藤原俊成,定家の歌論と,衆議判の盛んになったこととが注目される。また自歌合や撰歌合,時代不同歌合,物語歌合,影供歌合,老若歌合,百首歌合,職人歌合などの各様式が続出して後世の範となった。晴儀歌合としての遊宴性とは無関係であるが,芸道の場としての行事形式が確立して,連歌や連句にも大きな影響を与えた。順徳院の《八雲御抄(やくもみしよう)》は,歌合の作法を整理した点で注目される。

(4)第4期(鎌倉中・後期~吉野期) 要するに第3期の惰性で,歌合や歌仙歌合,年中行事歌合,職人歌合などの新傾向が目だった。

(5)第5期(室町時代) 歌合のみならず短歌自体が,前代から興隆しつつあった連歌に文壇の首座を譲ってしまった。職能や鳥獣魚虫,調度などに題材をとった戯歌合が流行したのは,〈お伽草子〉に追随して新奇をねらう窮余の策にすぎない。

(6)第6期(江戸時代以降) 国学者が擬古的な興味からしきりに歌合を催したにすぎず,かくして歌合の歴史は終末を告げた。
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歌合 (うたあわせ)

歌合の証本集成。平安末期成立。《十巻本歌合》と通称される。近世以来《伝宗尊(むねたか)親王筆歌合巻》と呼ばれていたが,その成立ははるかに古く,関白藤原頼通(よりみち)が主宰し,源経信が監修した史上初の歌合証本集成事業であることが,1938年(昭和13)近衛家文書の中からその総目録が発見されるにおよんで判明した。20巻本の《類聚歌合》の全貌が解明されたのも同じ時の発見による。その内容は,歌合主催者の社会的階層別に分類して,巻一~三内裏,仙洞,巻四・五后宮,女院,准三宮,巻六女御,御息所,女王,巻七斎宮,斎院,巻八・九親王,王孫,大臣,納言,巻十雲客,士大夫,地下人,女宅と,総数46度の歌合を収めている。その最下限は1056年(天喜4)の皇后宮歌合であるが,68年(治暦4)後冷泉天皇の死とともに編集事業は停止し,草稿本のまま近衛家に伝襲されることとなった。草稿とはいえ,完本または断簡を現存する43度について検するのに,当代随一の能書源兼行をはじめ,高野切(こうやぎれ)《古今集》の3人の書き手も含まれ,監修者経信の目次や割付け・補訂の筆跡を含めて14種に及ぶ書美術史上の宝庫である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「歌合」の意味・わかりやすい解説

歌合
うたあわせ

決められた歌題(兼題、即題)で詠んだ歌を一組ずつ番(つが)え(結番(けつばん))、互いに比較して優劣を決め、それを総合して「左」「右」各方(かた)の勝負を争う文芸的な集団競技。

 王朝貴族の情趣的な公私の生活は、さまざまの遊宴競技を盛んにしたが、中国の闘詩、闘草の模倣から「物合(ものあわせ)」(草合、前栽(せんざい)合、虫合など)が生まれた。その合わせた物に添えられた歌(その物を題にして詠む)が、互いに合わせられるようになり歌合が成立した。現存最古の歌合は9世紀末の『在民部卿行平家歌合(ざいみんぶのきょうゆきひらのいえのうたあわせ)』といわれるが、このころは物合と歌合は明確に区分されず、節日(せちにち)、観月などの後宴に、神事、仏事の余興として催された。したがって、歌合の方式、行事もこれらの式次第が準用され、会衆の多くが方人(かとうど)(優劣の難陳(なんちん)をする人)となり、読師(とくじ)(歌を整理して講師(こうじ)に渡す人)、講師(歌を読みあげる人)によって左右の歌が交互に披講され、判定も和やかな左右の方人の合議によった(衆議判(しゅうぎばん))。勝負意識が強くなると、特定の判者(はんじゃ)(判定者)が必要となり、初めは遊宴を主催する人(天皇、権門など)またはその代理者が判定したが、論難が激しくなり判定の資に歌学説が用いられるようになると、判者、方人には専門歌人が選ばれるようになった。

 概していうと、960年(天徳4)の『内裏(だいり)歌合』に代表される時代は、内裏後宮を主とした女房中心の遊宴歌合であった。1003年(長保5)の『御堂(みどう)七番歌合』から『承暦(じょうりゃく)内裏歌合』(1078)に至る間は、管絃(かんげん)を伴う遊宴の形をとりながらも歌が純粋に争われ、歌合の内容も歌人本位となった。そののち平安末期までは、源経信(つねのぶ)・俊頼(としより)、藤原基俊(もととし)・顕季(あきすえ)・顕輔(あきすけ)・清輔(きよすけ)らの著名歌人が作者、判者となり、歌の優劣と論難の基準のみが争われ、遊宴の意味はまったくなくなり、同時に番数も増加し、二人判、追判などの新しい評論形式が生まれた。鎌倉期に入ると、御子左(みこひだり)(俊成(しゅんぜい)、定家(ていか))、六条(顕昭(けんしょう)、季経(すえつね))両家学に代表される歌学歌論の純粋な論壇として、また新古今時代にみられる新傾向の文芸の表舞台ともなった。一方、百首歌の盛行とともに百首歌を結番する「百首歌合」が生まれ、時日をかけ対者を選んで結番し、また複数判者による分担判という大規模な歌合が成立した。『六百番歌合』(俊成判)、『千五百番歌合』(俊成ら十人判)などがこれである。その後は歌壇がまったく御子左末流(二条)のひとり舞台となった。ときには藤原光俊(みつとし)らの反御子左派あるいは京極為兼(きょうごくためかね)らの反二条派の歌合に和歌、評論とも新鮮味があったが、歌合は、文芸的には鎌倉初期をピークとして、目だつことなく習慣的に文芸様式の一として江戸期まで続けられた。なお、この形態で、秀歌を選んで番える「撰歌合(せんかあわせ)」、特定の個人の歌を番える「自歌合(じかあわせ)」、和歌と漢詩を番える「詩歌合(しいかあわせ)」、流布した物語中の和歌を番える「物語合」などもある。

[橋本不美男]

『岩津資雄著『歌合せの歌論史研究』(1963・早稲田大学出版部)』『萩谷朴・谷山茂校注『日本古典文学大系74 歌合集』(1965・岩波書店)』『萩谷朴著『平安朝歌合大成』全10巻(1979・同朋舎出版)』

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百科事典マイペディア 「歌合」の意味・わかりやすい解説

歌合【うたあわせ】

歌人を左右2組に分け,短歌を出し合って優劣を決める文学的な遊戯。現存するものでは仁和年間(885年―889年)の《在民部卿家歌合》が最も古い。平安〜鎌倉時代にとくに盛んに行われた。歌の優劣は勝・負・持(じ)(引き分け)と判定されるが,判者にはふつう高名な歌人など指導的立場の者,ときには貴顕がなって,判定の理由である判詞(はんじ)をつけた。平安時代中ごろまでは儀式的な色合いが強かったが,しだいに文芸性への志向が高まり,六百番歌合や千五百番歌合など文学史的意義の大きい歌合がなされた。また〈職人歌合〉など社会史的な資料として注目されるものも多い。
→関連項目伊勢新名所歌合絵巻歌仙絵歌論寛平御時后宮歌合紀友則三十六歌仙題詠花合人麻呂影供広田神社

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「歌合」の意味・わかりやすい解説

歌合
うたあわせ

和歌の作者が左右に分れて出題された歌題を歌に詠み,これを合せ比べて優劣を競う文学遊戯。左右にはそれぞれの味方である方人 (かとうど) がつく。進行係は読師 (とくし) ,読上げる役は講師 (こうじ) ,勝負の審判は判者 (はんじゃ) ,勝負の記録係は籌刺 (かずさし) という。特定の判者をおかず,参加者の多数決で決める場合は衆議判 (しゅぎはん) という。歌が披講されると,方人は難陳といって,相手方の歌を非難し,味方の歌を弁護する。その後,判者が判定を下し,判定理由を判詞 (はんじ) として記す。引分けは持 (じ) という。平安時代前期に始り,初めは豪華な室内装飾物や管弦の遊宴を伴い,遊戯的だったが,次第に和歌のよしあしを論じる文学批評の場となっていった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「歌合」の解説

歌合
うたあわせ

左右にわかれて歌の優劣を競う文学的行事。現存最古の例は885年(仁和元)頃の「行平(ゆきひら)卿家歌合」。平安中期までは「寛平后宮(きさいのみや)歌合」や「天徳内裏歌合」など,内裏や貴人の邸宅において盛大で遊宴的・儀礼的な晴儀歌合が多く行われたが,しだいに文芸性が高まり,批評を伴った文学形態として発展した。鎌倉初期がその最盛期で,「六百番歌合」「千五百番歌合」などが催された。勅撰集の撰集とともに,和歌の発展に寄与するところが大きかった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「歌合」の解説

歌合
うたあわせ

平安〜室町時代を通じ貴族・武士間に行われた和歌の一遊戯
歌人(数人〜2,30人)が左右に分かれ,題(数題〜100題)に応じて各1首ずつ詠み,判者がその優劣を判じて勝・負・持(同等)を決め,組の勝負を争った。このように勝負を判論することから歌論・歌学の発達を促した。鎌倉時代前半に最盛期を迎えた。

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世界大百科事典(旧版)内の歌合の言及

【仮名】より

…《藤原為家本土佐日記》の仮名の字源は,〈安以宇衣於加可幾支木久計介己御散之数須世曾所太多知州天止奈那仁尓奴祢乃能波八比不部保末美三武无女毛也由江与良利留礼呂和為恵遠乎〉の63字で,ほとんどすべて万葉仮名としてしきりに用いられた文字である。 平安遷都の後,約100年の間に,摂関政治への態勢はしだいに整えられ,宮廷の後宮での女子の世界が文化史的に意味をもってきたとき,そこで流通していた女手は,歌合の文字として用いられるようになり,やがて和歌を女手で書く慣習が成立し,勅撰集である《古今和歌集》が撰進されるとき,女手が用いられた。これは女手が仮り名として社会的に低い位置に置かれていたのが,公的な文字として認められた最初の機会となり,やがて紀貫之によって,初めて散文の日記文学へと用途が拡大され(《土佐日記》),平安時代文学のための文字として《竹取物語》《宇津保物語》以下に用いられるに至り,勅撰和歌集もすべて女手で書かれるようになった。…

【歌論】より

…一方,歌論史のうえからみれば,以降くり返し論じられ,伝統的な論点となってゆく〈心〉と〈言葉(詞)〉の関係に論及し,いわゆる心詞具有の説を展開している点が重要である。 〈歌論〉をさかんにした契機に,歌合があった。歌合の歴史は《古今和歌集》よりさかのぼるが,形式的,文学的に充実してくるのは《天徳四年(960)三月内裏歌合》のころからである。…

【判詞】より

…和歌,漢詩,俳諧の優劣を判定した詞(ことば)。とくに歌合句合において,判者が番(つが)わされた左右の歌・句についての優劣を勝・持(じ)(判定しがたい場合)とし,その判定理由を書いた詞をいうことが多い。平安初期をやや下ったころに起こり,鎌倉初期盛んとなった文学的歌合において,複数判者や衆議判,判に対する反駁としての陳状,さらに改判,再判などが行われた。…

【物合】より

…左方,右方に分かれ,たがいに物を出し合って優劣を競い,判者(はんじや)が勝敗の審判を行い,その総計によって左右いずれかの勝負を決める遊戯。物合は歌合,相撲(すまい),競馬(くらべうま),賭射(のりゆみ)などとともに〈競べもの〉の一種であるが,歌合,詩合などをも含む広範囲に及ぶ各種の合わせものを一括していうことも多い。平安時代に宮廷貴族社会を中心に行われ,一般にも普及し後世に及ぶ。…

【類聚歌合】より

…平安朝歌合証本の最大の集成事業。20巻。…

【類聚歌合】より

…平安朝歌合証本の最大の集成事業。20巻。…

※「歌合」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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