日本大百科全書(ニッポニカ) 「歌合」の意味・わかりやすい解説
歌合
うたあわせ
決められた歌題(兼題、即題)で詠んだ歌を一組ずつ番(つが)え(結番(けつばん))、互いに比較して優劣を決め、それを総合して「左」「右」各方(かた)の勝負を争う文芸的な集団競技。
王朝貴族の情趣的な公私の生活は、さまざまの遊宴競技を盛んにしたが、中国の闘詩、闘草の模倣から「物合(ものあわせ)」(草合、前栽(せんざい)合、虫合など)が生まれた。その合わせた物に添えられた歌(その物を題にして詠む)が、互いに合わせられるようになり歌合が成立した。現存最古の歌合は9世紀末の『在民部卿行平家歌合(ざいみんぶのきょうゆきひらのいえのうたあわせ)』といわれるが、このころは物合と歌合は明確に区分されず、節日(せちにち)、観月などの後宴に、神事、仏事の余興として催された。したがって、歌合の方式、行事もこれらの式次第が準用され、会衆の多くが方人(かとうど)(優劣の難陳(なんちん)をする人)となり、読師(とくじ)(歌を整理して講師(こうじ)に渡す人)、講師(歌を読みあげる人)によって左右の歌が交互に披講され、判定も和やかな左右の方人の合議によった(衆議判(しゅうぎばん))。勝負意識が強くなると、特定の判者(はんじゃ)(判定者)が必要となり、初めは遊宴を主催する人(天皇、権門など)またはその代理者が判定したが、論難が激しくなり判定の資に歌学説が用いられるようになると、判者、方人には専門歌人が選ばれるようになった。
概していうと、960年(天徳4)の『内裏(だいり)歌合』に代表される時代は、内裏後宮を主とした女房中心の遊宴歌合であった。1003年(長保5)の『御堂(みどう)七番歌合』から『承暦(じょうりゃく)内裏歌合』(1078)に至る間は、管絃(かんげん)を伴う遊宴の形をとりながらも歌が純粋に争われ、歌合の内容も歌人本位となった。そののち平安末期までは、源経信(つねのぶ)・俊頼(としより)、藤原基俊(もととし)・顕季(あきすえ)・顕輔(あきすけ)・清輔(きよすけ)らの著名歌人が作者、判者となり、歌の優劣と論難の基準のみが争われ、遊宴の意味はまったくなくなり、同時に番数も増加し、二人判、追判などの新しい評論形式が生まれた。鎌倉期に入ると、御子左(みこひだり)(俊成(しゅんぜい)、定家(ていか))、六条(顕昭(けんしょう)、季経(すえつね))両家学に代表される歌学歌論の純粋な論壇として、また新古今時代にみられる新傾向の文芸の表舞台ともなった。一方、百首歌の盛行とともに百首歌を結番する「百首歌合」が生まれ、時日をかけ対者を選んで結番し、また複数判者による分担判という大規模な歌合が成立した。『六百番歌合』(俊成判)、『千五百番歌合』(俊成ら十人判)などがこれである。その後は歌壇がまったく御子左末流(二条)のひとり舞台となった。ときには藤原光俊(みつとし)らの反御子左派あるいは京極為兼(きょうごくためかね)らの反二条派の歌合に和歌、評論とも新鮮味があったが、歌合は、文芸的には鎌倉初期をピークとして、目だつことなく習慣的に文芸様式の一として江戸期まで続けられた。なお、この形態で、秀歌を選んで番える「撰歌合(せんかあわせ)」、特定の個人の歌を番える「自歌合(じかあわせ)」、和歌と漢詩を番える「詩歌合(しいかあわせ)」、流布した物語中の和歌を番える「物語合」などもある。
[橋本不美男]
『岩津資雄著『歌合せの歌論史研究』(1963・早稲田大学出版部)』▽『萩谷朴・谷山茂校注『日本古典文学大系74 歌合集』(1965・岩波書店)』▽『萩谷朴著『平安朝歌合大成』全10巻(1979・同朋舎出版)』