日本歴史地名大系 「今帰仁間切」の解説 今帰仁間切なちじんまぎり 沖縄県:沖縄島北部今帰仁村今帰仁間切本部(もとぶ)半島の北側に位置し、国頭方九間切の一つ。一六六六年までは伊野波(ぬふあ)間切(のちの本部間切)を含み本部半島の大半を占めていた。里積記によれば、首里城から運天(うんていん)村の間切番所まで一九里一四町余。一四七一年の「海東諸国紀」は今帰仁(なきじん)グスク(今帰仁城)のことを「伊麻奇時利城」と記している。伊麻奇時利はイマキジリと発音したと思われ、語義について定説をみるに至っていないが、新来者(イマキ=渡来者)や魚来住(ナキズミ=魚の寄付く場所)に由来するとの説がある。のちには「みやきせん」とよばれるようになる。「おもろさうし」巻一三の一二五に「一 きこゑみやきせん(有名な今帰仁)/もゝまかり つみあけて(沢山の曲がり玉〔勾玉〕を積み上げて)/かはらよせ御くすく けらへ(かわら〔勾玉〕を寄せる御グスク みごと)/又 とよむみやきせん(鳴響む今帰仁)」とある。弘治一四年(一五〇一)九月大吉日の銘がある那覇市玉陵(たまうどうん)の玉御殿碑文には「ミやきせんのあんし まもたいかね」とある。また嘉靖四二年(一五六三)七月一七日の東掟宛辞令書をはじめ、一六世紀半ば頃から一七世紀半ば頃までの間に当間切にかかわる一〇通以上の辞令書を確認できるが、これらの辞令書には「ミやきせんまきり」とみえる。絵図郷村帳で当間切に所属するのは崎本部(さちむとうぶ)村・へなち村(辺名地村)・「けんけん村」(健堅村)・瀬底(せそこ)島・上によは村(伊野波村)・下によは村・具志川(ぐしかわ)村(浜元村)・浦崎(うらさち)村・びし村(備瀬村)・具志堅(ぐしちん)村・おや泊村(親泊村)・今帰仁(なちじん)村・しげま村(志慶真村)・兼城(はにし)村(兼次村)・しゆきちや村(諸喜田村)・よな嶺村(与那嶺村)・崎山(しちやま)村・中城(なかぐしく)村(仲尾次村)・へしき村(平敷村)・中そね村(仲宗根村)・謝名(じやな)村・きし本村(岸本村)・玉城(たもーし)村・せつかく村(勢理客村)・ごが村(呉我村)・あめそこ村(天底村)・かつお村(嘉津宇村)・ふれけな村(振慶名村)・まつざ村(松田村)・がぶ村(我部村)・上運天(ういうんていん)村(運天村)・下運天(ひちやうんていん)村・沖ノ郡島(古宇利島)・しやはな村(謝花村)・ミつな村(水納島)・石川村の三六ヵ村(島)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by