嶺村(読み)みねむら

日本歴史地名大系 「嶺村」の解説

嶺村
みねむら

[現在地名]前橋市嶺町・金丸町かなまるまち

南は勝沢かつざわ村、東は小坂子こざかし村、西は不動堂ふどうどう村・小暮こぐれ(現勢多郡富士見村)、北は赤城山麓の原野に連なる。寛文郷帳に田方二四四石二斗余・畑方六九石九斗余とあり、「但松山雑木山芝野在」と注記される。天明二年(一七八二)の前橋藩領村々明細(井田文書)によれば、田三〇町余・畑四二町余、家数一一二、男二四〇・女一九四、うち下男・下女一九、馬四八。天保三年(一八三二)には酒造議定(三川文書)に参加している者一名がいる。同七年の前橋藩領内の質屋一覧では、三人の名が記される(関家御用日記「下川淵村誌」所収)


嶺村
みねむら

[現在地名]大田区久が原くがはら一丁目・同四丁目・同六丁目・南久が原みなみくがはら一―二丁目・千鳥ちどり一―三丁目・池上いけがみ八丁目・田園調布南でんえんちようふみなみ田園調布本町でんえんちようふほんちよう東嶺町ひがしみねまち西嶺町にしみねまち北嶺町きたみねまち南雪谷みなみゆきがや四丁目・鵜の木うのき一―三丁目・下丸子しもまるこ四丁目

下沼部しもぬまべ村の東、多摩川左岸の段丘上に立地し、村の北部を中原なかはら往還が通る。田園簿に峯村とみえ、田方四〇二石余・畑方三一七石余、ほかに見取場田一町五反余・畑一町六反余があり、すべて幕府領。寛文二年(一六六二)大坂城代青山宗俊領となるが、延宝六年(一六七八)封地変更で幕府領に復帰(寛政重修諸家譜・風土記稿)旧高旧領取調帳では幕府領。享保一〇年(一七二五)の高八三四石余(「御用触留帳」平川家文書)


嶺村
みねむら

[現在地名]河津町みね

沢田さわだ村の西、河津川下流右岸に位置する。北条氏所領役帳によると他国衆小山田弥五郎の所領として四〇貫八三五文が「符川名」にあった。地内に符川ふかわの地名があり、同名は当地に比定される。永禄一二年(一五六九)一二月一七日の北条氏政書状写(古今消息集)によれば武田軍の攻撃により所領を失った富士兵部少輔信忠(富士浅間社大宮司)に居住地として河津内符河名が与えられている。文禄三年(一五九四)検地帳には「川津内峰村」とある(増訂豆州志稿)。江戸時代はじめは幕府領、宝永五年(一七〇八)から延享四年(一七四七)まで相模小田原藩領、文化八年(一八一一)旗本向井領となり幕末に至る(「韮山町史」など)


嶺村
みねむら

[現在地名]安中市嶺

原市はらいち村の北西、郷原ごうばら村の東にあり、九十九つくも川右岸に位置する。「寛文朱印留」に村名がみえ、安中藩領。寛文郷帳では田方二一三石余・畑方一四四石余。江戸後期の御改革組合村高帳では安中藩領で家数一〇〇。寛延二年(一七四九)の書上帳(須藤文書)には「麦粟稗芋その他粮物菜大根大角豆葉芋葉等に御座候」とあり米が記されない。肥料は山草・ほしか・荏油・酒粕・こぬかで、農道具の鍬・鎌・鋳鍬・馬鍬・こやし桶などは一〇〇石につき代金二九貫文ほどであった。寛文五年(一六六五)の助馬村々書上(坪井文書)によると、松井田まついだ宿・坂本さかもと宿(現碓氷郡松井田町)助郷村として人足役家数一七、馬数一二と定められており、助郷は幕末まで続いた。


嶺村
みねむら

[現在地名]宇都宮市峯町みねまち東宿郷ひがししゆくごう六丁目

北は今泉いまいずみ村、西は宿郷村、ゆるやかな丘陵高地を占める。鎮守鶏峰けいほう権現(鶏峰神社)は村の最高地に鎮座し、明治・大正期にはここから宇都宮二荒山神社の森がはっきりと見え、集落は鶏峰権現を囲むように散在する。村成立時から宇都宮城付領分。慶安郷帳に田方二石余・畑方一二八石余とある。元禄九年(一六九六)宇都宮宿大助郷一七ヵ村の一つとなる(「宇都宮宿助郷帳」上野虎四郎文書)。正徳年間(一七一一―一六)の宇都宮領村々諸割物高付覚帳(五月女久五文書)では、用水川除普請往還人馬勤高一八八石余、青草勤高も一八八石余。


嶺村
みねむら

[現在地名]大島村嶺

近世を通じて刈羽郡に属し、その最南端に位置、北東は石黒いしぐろ(現刈羽郡高柳町)、南西は頸城郡田麦たむぎ村。正保国絵図では高六六石余。天和三年郷帳では高七三石三斗余、うち山高五斗一升・漆高八斗六升・青苧高二斗三合、反別田四町五反余・畑屋敷五町八反余・青苧畑二反余で、漆木四三本、家数一八。安永九年(一七八〇)新田検地では高二八石三斗余。同五年の乍恐以書付奉申上候(高柳町史)によれば、明和二年(一七六五)以来栗・杉ほかなにによらず植林することを命じられているが、山間まで田畑に使われ、空地が一切ないとして出雲崎いずもざき代官所に容赦を願出ている。


嶺村
みねむら

[現在地名]清水市袖師町そでしちよう横砂西町よこすなにしちよう

西窪にしくぼ村の東、庵原川の最下流域に位置し、東海道が通る。元禄郷帳に村名がみえ、「古者川尻村」と注記され、高三八〇石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。その後旗本曾我領となり幕末まで続く(「寛政重修諸家譜」・旧高旧領取調帳など)


嶺村
みねむら

[現在地名]下部町嶺

久保くぼ村の北西、西八代台地丸山まるやまの南斜面に立地する。集落は久保川を見下ろす右岸高台にある。峰とも記す。慶長古高帳に嶺村とみえ高一九石余、幕府領。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳では高一八石余。文化(一八〇四―一八)初年の家数一二・人数六七、馬二(甲斐国志)


嶺村
みねむら

[現在地名]国見町伊美いみ みね友安ともやす種田たねだ

西中にしなか村の北、国東半島の最北端に位置する。峯・美根などとも記し、東は伊美浦いみうら村・伊美浜いみはま村。中世には伊美庄内であったと思われる。小倉藩元和人畜改帳には美根村とみえ、高二〇四石余、蔵納。家数三一、うち百姓本屋一三、隠居・庭屋・牛屋・名子ともに一八。


嶺村
みねむら

[現在地名]八尾町みね

和山わやま村の南、室牧むろまき川右岸の山腹にある。峯とも書く。正保郷帳に嶺村とみえ、村高は野須郷のすごう村と合せて一一一石余、田方二町余・畑方五町三反余。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では高一一一石余。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高三八石。


嶺村
みねむら

[現在地名]小矢部市嶺

なか村の北、稲葉いなば山南麓に立地。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数四、桜町組に属する。正保郷帳では高九〇石余、田方二町余・畑方四町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高八四石・免六ツ二歩、小物成は山役六九匁・蝋役四匁(三箇国高物成帳)


嶺村
みねむら

[現在地名]門前町嶺

俊兼としかね村の西、高塚たかつか(二四〇メートル)の東麓山地に立地。正保郷帳では高一石余、田方七畝余。承応三年(一六五四)の村御印の高一一石余、免四ツ五歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二二石、免五ツ、小物成は山役九匁・苦竹役一匁・漆役二匁(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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