以西用水(読み)いさいようすい

日本歴史地名大系 「以西用水」の解説

以西用水
いさいようすい

鮎喰あくい川から取水し、三角洲性扇状地をなす同川左岸の下流域を灌漑する農業用水の総称で、取水口にあたる扇頂部から「また」とよばれる数条の幹川用水路が放射状に扇状地面上の農地を網羅している。平成五年(一九九三)現在、徳島市国府町こくふちよう地区の延命えんめい矢野やの・西矢野観音寺かんのんじ府中こうなか早渕はやぶち和田わだ南岩延みなみいわのぶ、および名西みようざい石井いしい町石井の内谷うちだにからなる一〇地区の農地約二六〇ヘクタールを灌漑している。幕末期から明治初期にかけては、このほかに敷地しきじ池尻いけじり日開ひがい井戸いど・北岩延(いずれも現徳島市国府町地域)、および名西郡に属する尼寺にじ(現石井町石井地域)の六ヵ村、合せて一六ヵ村・約五〇〇町歩を灌漑し、畑作が卓越した吉野川流域の北方きたがた地方では最大の水田地帯を涵養した。以西用水が史料のうえで確認されるのは、宝暦一二年(一七六二)の以西井筋の村とその下流に位置する舌洗したらい(下羅井)井筋の村々との舌洗池の用益権をめぐる争論文書(「宝暦十二年正月ノ廿五日ヨリ同年十二月六日迄於裁許所出入落着帳」蜂須賀家文書)においてである。しかし以西用水の灌漑範囲には、古代に施行されたとみられる条里地割の形態を呈する農地が広く分布すること、また一三世紀初頭に名東郡から分郡して寛文四年(一六六四)まで存続し、用水名の由来ともなった以西郡に属していた村々が含まれていること、さらに「阿波志」の日開村鎌田かまた祠の項には、一六世紀後半に活躍した鎌田宗休によって「穿溝分水以輪灌十二村」とあることなどから、開削の時期は近世以前にさかのぼると考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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