名西郡(読み)みようざいぐん

日本歴史地名大系 「名西郡」の解説

名西郡
みようざいぐん

面積:二〇二・一四平方キロ
石井いしい町・神山かみやま

県東部、四国山地北方の山間部から北東部の吉野川南岸の平野に広がる。古代の阿波国九郡の一つで、寛平八年(八九六)名方なかた郡が東西に分割されて成立した。「和名抄」東急本国郡部などには名西郡、東急本郷里部などには名方西郡とみえ、高山寺本には当郡の記載が脱落している。「和名抄」諸本とも訓を欠くが、九条家本「延喜式」民部省などには「ナニシ」、「拾介抄」には「ナノセイ」の訓がある。近世は東は名東みようどう郡、南は山地を挟み勝浦かつうら郡・那賀なか郡、西は麻植おえ郡、北は板野いたの郡に接した。現在一部が徳島市、板野上板かみいた町に編入され、東は徳島市・名東郡佐那河内さなごうち村、南は勝浦郡上勝かみかつ町・那賀木沢きさわ村、西は麻植郡鴨島かもじま町・美郷みさと村、美馬みま木屋平こやだいら村、北は吉野川を挟み上板町に接する。南西部は四国山地北方の狭峻な山間部(山分)、北東部は吉野川流域の肥沃な平野部(里分)からなる。山間部を鮎喰あくい川がおよそ北東に流れて徳島市に入り、平野部の北端を吉野川、中央を飯尾いのお川・渡内わたうち川がそれぞれ東流する。

〔原始〕

旧石器時代の遺跡は確認されていない。縄文時代では石井町の石井城いしいじよううち遺跡(曾我団地地区)で河道跡から前期の状耳飾、後・晩期の石錘・石鍬などが出土しており、山麓後背湿地の土地利用を示す例といえる。弥生時代では気延きのべ山から派生するまえ山前面に広がる渡内川流域低地の微高地上に清成きよなり遺跡・石井城ノ内遺跡・前山公園まえやまこうえん遺跡がある。清成遺跡では終末期の供献土器を配置した方形周溝や竪穴住居跡、石井城ノ内遺跡では土坑・井戸・溝が検出されている。両遺跡は同一の遺跡と推定され、大規模集落が広がるものと考えられる。JR徳島線以北では銅鐸形土製品が出土した弥生前期後半から後期にかけての高川原たかがわら遺跡が確認されるのみで、低平地の広がる渡内川・飯尾川流域での遺跡の確認が待たれる。神山町では弥生集落跡は検出されていないが、中期末から後期の平形銅剣埋納遺跡である東寺ひがしでら遺跡・左右山そうやま遺跡がある。可耕地の乏しい山間部での出土である。遺跡周辺地域には青銅器原材料となった可能性のある自然銅が存在することや、利用の有無は不明だが水銀朱の原材料である辰砂の鉱脈が存在することから、原材料供給の見返りとして銅剣を入手した集団の存在も想定すべきであろう。

気延山から前山山塊にかけての石井町域は古墳が集中し、県内有数の古墳群域を形成する。東から凝灰岩製石釧を副葬した箱式石棺の内谷うちだに古墳のある日枝神社ひえじんじや古墳群、箱式石棺や横穴式石室墳など六基から構成される尼寺にじ古墳群、一九基の後期古墳からなるひびきいわ古墳群、中期前葉の全長六一メートルの前方後円墳である山の神やまのかみ一号墳を盟主墳とする利包としかね古墳群、製内行花文鏡をもつ高良こうら一号墳、三基の箱式石棺から構成される八倉姫神社やくらひめじんじや古墳群、竪穴式石室を主体とし、鉄矛を副葬する清成古墳、二基の前方後円墳からなる前山古墳群製内行花文鏡をもつじよう内丸山うちまるやま古墳、前期の方墳と突出部を有する円墳が隣接する曾我氏神社そがうじじんじや古墳群、さらに神山町に属して長谷ながたに古墳が山頂部に位置する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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