日本歴史地名大系 「名東郡」の解説 名東郡みようどうぐん 面積:四二・三〇平方キロ佐那河内(さなごうち)村県東部ほぼ中央にあり、北・東は徳島市、南は勝浦(かつうら)郡勝浦町・上勝(かみかつ)町、西は名西(みようざい)郡神山(かみやま)町に接する。現在の郡域は佐那河内村一村のみであるが、郡成立以来の範囲は徳島市の吉野川以南および現板野(いたの)郡藍住(あいずみ)町の一部を含み、東は紀伊水道に面し、南は蛇行しながら東流する園瀬(そのせ)川流域、西は山地で名西郡に接し、北は東流する吉野川(別宮川)を挟んで板野郡と向い合っていた。〔原始・古代〕現郡域で現在知られている遺跡は、佐那河内村下(しも)字中浦の根郷塚(なかうらのねごうづか)古墳のみである。寛平八年(八九六)九月五日の太政官符により名方(なかた)郡が東西に分割されて名東郡が成立した(昌泰元年七月一七日「太政官符」類聚三代格)。九条家本「延喜式」民部省では「名東」に「ナヒムカシ」と訓を付している。名方東郡ともいった(「和名抄」伊勢本・東急本)。昌泰元年(八九八)の前掲太政官符では、名西郡司の訴えにより郡分割以降も名方郡の時から引続いて名東郡に置かれていた主帳二員のうち一員を省き、名西郡に置くこととされている。また名方郡には一一郷があり、分割の時点でそのうち七郷が当郡に属することになったとある。だが「和名抄」には名東郡の郷として名方・新井(にいい)・賀茂(かも)・井上(いのへ)・殖栗(えくり)・八万(はちま)の六郷しか記載されておらず、「和名抄」では名西郡に含まれている桜間(さくらま)郷が当郡に含まれていた可能性もある。当郡には阿波国分寺があり、同寺の所在地は現徳島市国府町矢野(こくふちようやの)に比定される。同所では中心伽藍の一部や寺域を画する溝・築地の一部が確認されているが、全体像はまだ明らかではない。周辺には同じく国府町矢野に西蓮(さいれん)寺跡、国府町延命(こくふちようえんめい)に常楽(じようらく)寺(旧延命院か)など奈良時代から平安時代にかけて存在していた寺院がある。さらに国分寺の西一・五キロの現徳島市入田(にゆうた)町の内(うち)ノ御田(みた)の谷間にある内ノ御田瓦窯跡からは国分寺、国分尼寺(石井町)、常楽寺、石井(いしい)廃寺(石井町)出土例と同笵の軒平瓦が出土している。このように気延(きのべ)山麓一帯に広がり、かつ強い連携性をもっている一群の古代寺院の背後には粟凡直氏の存在をみてよい。さらに当郡域に所在する阿波国府については、従来国分寺・国分尼寺に近接した現徳島市国府町府中(こくふちようこう)にある大御和(おおみわ)神社周辺と推定されていたが、最近発掘された国府町観音寺(こくふちようかんのんじ)の観音寺遺跡から七世紀後半にさかのぼる古代地方行政にかかわる遺物が大量に出土し、この遺跡周辺に七世紀後半以降の国衙が所在していたことがほぼ確実になった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by