伊保庄(読み)いほのしよう

日本歴史地名大系 「伊保庄」の解説

伊保庄
いほのしよう

近世の伊保庄村を荘域としたと思われる、賀茂別雷かもわけいかずち神社(上賀茂神社、現京都市北区)領の荘園

立荘の時期は明らかでないが、「賀茂皇太神宮記」には、寛治七年(一〇九三)宮中武徳殿の行事である競馬の式が賀茂社に移された時、馬料として諸国の荘園二〇ヵ庄が寄進された。伊保庄はその一庄であったと記す。直接の文献では、仁平二年(一一五二)八月一日の周防国在庁下文(鳥居大路文書)に、

<資料は省略されています>

とあるのが初見で、これ以前に伊保庄が賀茂社領であったことがわかる。平安末期以降、賀茂社領は武士らの狼藉を受け、それを停止させるため、院宣や下文が出されているが、周防国では土肥実平・大野七郎らがはしら(現岩国市)、伊保庄、竈戸関かまどせき(現熊毛郡上関町)の賀茂社領を狼藉したため、院宣が下され、源頼朝も下文をもって禁止している(寿永三年四月二四日・文治二年九月五日「源頼朝下文案」賀茂別雷神社文書)


伊保庄
いほのしよう

嘉元三年(一三〇五)四月頃とされる摂渡庄目録(九条家文書)に所当五〇余石が課せられた伊保庄田二五町一段三五代がみえる。南北朝初期にも同様の所当が確保されている(暦応五年正月「摂渡庄目録」同文書)。応安二年(一三六九)二月二五日、法眼実勝は伊保庄天満宮に毎月二五日の灯油田として田三〇代を寄進している(「法眼実勝田地寄進状」曾根文書)。享徳三年(一四五四)八月七日、鷹司家家礼の中原康富は渡領伊保庄の件につき、鷹司房平使者として播磨守護山名宗全の屋形に赴いている(康富記)。文明一一年(一四七九)六月日の御借物方返弁注文(九条家文書)によると、九条家の家領を預かる唐橋在数は伊保庄からの一貫五〇〇文を前年一二月九条家の借金返済に充てている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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