デジタル大辞泉
「土肥実平」の意味・読み・例文・類語
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どひ‐さねひら【土肥実平】
- 平安末・鎌倉初期の武士。相模国土肥郷(神奈川県湯河原町・真鶴町)領主。通称次郎。源頼朝の挙兵に応じ、石橋山の戦いでその危急を救った。その後義経の平氏討伐を助け、また、頼朝について京畿の治安維持にあたり、頼朝の奥州征伐と建久元年(一一九〇)の上洛に従う。その子小早川遠平の一流は安芸国(広島県)で繁栄した。生没年不詳。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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土肥実平
どいさねひら
生没年不詳。平安末・鎌倉初期の武将。本来は「どひさねひら」と読む。平高望(たかもち)の後裔(こうえい)、中村荘司宗平(むねひら)の息。相模(さがみ)国足下(あしのしも)郡土肥郷(神奈川県湯河原(ゆがわら)町、真鶴(まなづる)町)を本拠とし土肥次郎と称す。1180年(治承4)源頼朝(よりとも)の挙兵に参加、石橋山(いしばしやま)の敗戦後、頼朝を真鶴岬から安房(あわ)に逃し、再起のもとをつくった。以来頼朝に重用され、佐竹(さたけ)氏・木曽義仲(きそよしなか)・平氏征討に奮戦。84年(元暦1)には備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)国の惣追捕使(そうついぶし)に任ず。翌年平氏が壇ノ浦に滅ぶと、捕虜平宗盛(むねもり)らを京都に護送、源義経(よしつね)没落直後の洛中(らくちゅう)警衛の任にもあたったが、91~95年(建久2~6)に死亡した。
[杉橋隆夫]
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土肥実平 (どひさねひら)
平安末・鎌倉初期の武士。生没年不詳。中村荘司宗平の次男。相模国土肥郷を領し土肥氏の祖となる。源頼朝の挙兵にいちはやく参じ,石橋山で敗れた頼朝の逃走路を開いた功によって以後重用された。源範頼・義経の平氏追討軍の侍大将,ついで平氏西走後の備前・備中・備後国の惣追捕使に任ぜられて,戦後処理と国衙機構の整備にあたった。1191年(建久2)をさほど下らぬ時期に没した。
執筆者:外岡 慎一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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土肥実平
生年:生没年不詳
平安末・鎌倉初期の武将。相模国(神奈川県)土肥郷が本領。桓武平氏の中村庄司宗平の子。治承4(1180)年,源頼朝の招きに応じて挙兵に参加。石橋山の敗戦の際には機転をきかせて頼朝の危機を救い,安房国(千葉県)への脱出に成功。その後,源義仲討滅戦や平家追討戦では侍大将を務めるとともに,元暦1(1184)年には備前,備中,備後3カ国の惣追捕使に任ぜられて占領地の軍政にも当たるなど,頼朝からその軍事的能力を高く買われている。またその質素な生活ぶりも頼朝に讃えられており,東国武士を代表する人物のひとりであった。<参考文献>石井進『中世武士団』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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土肥実平
どひさねひら
鎌倉時代の武士。相模国土肥郷を本拠とする鎌倉御家人。もと平氏。源頼朝の挙兵に応じ石橋山の戦いには頼朝の危機を救い,以後源平合戦,奥州征伐に功を立て,備前,美作,備中,備後,播磨などの守護に任じられた。『吾妻鏡』建久2 (1191) 年7月 18日の記事にみえるのが最後。その子孫は小早川氏を称し,安芸国に下向し勢力を伸長した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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土肥実平 どひ-さねひら
?-? 平安後期-鎌倉時代の武将。
中村宗平(むねひら)の子。相模(さがみ)(神奈川県)土肥郷の地頭。治承(じしょう)4年(1180)源頼朝の挙兵に応じ,石橋山の戦いに敗れた頼朝の危急をすくう。平氏追討に功をたて,備前,備中(びっちゅう),備後(びんご)の惣追捕使(のちに守護)に任じられた。通称は次郎。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の土肥実平の言及
【土肥氏】より
…相模国土肥郷を本領とする中世武家。桓武平氏の流れをくむ相模国西部の雄族中村氏の一族で,中村荘司宗平の次男実平が土肥郷を分領して名字の地としたことにはじまる。実平はその子遠平とともに源頼朝の挙兵に参じ,鎌倉幕府開創期にめざましい勲功をあげた。そのため鎌倉御家人の中でもその地位は高く,所領経営の面でも土肥郷に北接する早河荘を支配下に入れるなど,その勢力は日増しに拡大した。しかし1213年(建保1)の和田合戦で,遠平の子惟平が同族の土屋氏らとともに和田方にくみしたため,惟平の子息2人は討死し惟平も捕らえられたのち斬首となって,老いた遠平がようやく本領を維持したものの,一族の衰退は覆いようもなかった。…
【備後国】より
…1166年(仁安1)平重衡(しげひら)が後白河院に寄進して[大田荘]が成立すると,68年尾道村を大田荘の倉敷地(くらしきち)とする申請が認められ,尾道が港町として栄える基ができた。【坂本 賞三】
【中世】
[鎌倉時代]
1184年(寿永3)源頼朝は土肥実平(どひさねひら)を備前,備中とともに備後の守護に任じ,備後には実平の男遠平(とおひら)が代官として在国した。実平が知行した大田荘は,争乱の間に損亡がひどく,ほとんど荒野となったといわれる。…
※「土肥実平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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