伊勢国射和(いざわ)村(三重県松阪市射和町)特産の白粉。水銀と赤土を主原料とする。昔は射和の軽粉(けいふん)または「はらや」の名で知られた。櫛田(くしだ)川上流の丹生(にう)(多気(たき)郡多気町丹生)の丘陵地帯から産出する水銀と、射和の朱中山(しゅなかやま)産の丹土(にど)(赤土)を使用して軽粉業が興った。最盛期は室町時代で、釜元(かまもと)が83軒もあったが、のち粗製乱造をおそれ16釜になる。伊勢神宮の禰宜(ねぎ)は軽粉を京都の公卿(くぎょう)たちに贈り、山田(伊勢市)の御師(おし)も御祓(おはらい)配りのため諸国の檀家(だんか)回りにもこれを土産(みやげ)物とした。江戸初期、丹生水銀の廃鉱後も他国産原料で製造を続け、射和の軽粉はなお伊勢の特産物として知られた。明治以後、化学薬品に押され衰退し、最後に残った1軒の釜元も1953年(昭和28)に廃業した。
[原田好雄]
『山崎宇治彦・北野重夫著『射和文化史』(1956・射和村教育委員会)』
…またこの水銀を原料として射和では軽粉(けいふん)が作られ白粉として用いられた。伊勢白粉の製造は16世紀中葉に最も盛んとなったが,鉛を原料としないために珍重され,伊勢の特産物としてとくに有名であった。【飯田 悠紀子】
【近世】
織豊政権の時代,伊勢の支配関係は相争う多数の在地土豪を基盤に目まぐるしく移り変わったが,豊臣時代を概観すると,北勢の長島に福島正頼,桑名に石川数正,丹羽氏次,氏家行広,亀山に関一政,岡本宗憲,中勢の奄芸郡上野に分部光嘉,安濃津(津)に富田知信,神戸(かんべ)に生駒一政,滝川雄利(かつとし),松坂(松阪)に蒲生氏郷,服部一忠,古田重勝,菰野(こもの)に土方雄久,井生に松浦久信,雲出に蒔田広定,竹原に山崎定勝,南勢の岩手に稲葉道通(みちとお)などが,知行高1万~7万石ほどの規模で配された。…
…伊勢の丹生(にう)で産出した水銀鉱を近くの射和(いさわ)で軽粉にし,これも近くの松阪で白粉に商品化し,伊勢参りの土産として販売していた。さらに伊勢の御師が全国の檀家まわりをしながら,土産物として伊勢暦などとともに配ったので,伊勢白粉は有名になった。江戸時代の白粉には,伊勢白粉,御所白粉とよばれた軽粉と,京白粉,生白粉,パッチリなどとよばれた鉛白の2種類があり,さらに生白粉は粒度の違いによって舞台香(中粒度),唐の土(粗粒度)にわかれていた(《都風俗化粧伝》1813)。…
…しかし,日本の水銀産出は鎌倉,室町と時代が下るにつれて減少していった。 室町時代以後伊勢参りの代表的な土産品となった〈伊勢白粉(いせおしろい)〉は,軽粉(塩化水銀(I)の結晶,白色の粉末)のことで,御所白粉とも呼ばれたが,顔に塗るには適さず,むしろ,しみやそばかすを取って白くする内服用の薬として利用したものと思われる。軽粉はノミ,シラミ駆除や駆梅剤(梅毒の薬)としても使われ,一部では堕胎薬ともされていたといわれる。…
…しかし松坂城下建設とともに町人は松坂に移住させられ,参宮街道も松坂経由に付け替えられ,松ヶ島は一農村となった。なお市域南東部,櫛田川左岸の射和(いざわ)は,古くより多気郡丹生(現,勢和村)産の水銀を原料に白粉(伊勢白粉)を製し,近世には射和商人は松坂商人と並んで多方面に活動した。【稲本 紀昭】 1584年織田信雄に代わって松ヶ島城に入った蒲生氏郷は,88年阪内川下流右岸の孤立丘陵に新たに城を築いて城下町を開き,松坂と名付けた。…
※「伊勢白粉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新