日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊木三猿斎」の意味・わかりやすい解説
伊木三猿斎
いきさんえんさい
(1818―1886)
幕末維新期、備前岡山藩池田家の筆頭家老。名は忠澄(ただずみ)。通称を長門(ながと)のち若狭(わかさ)と号す。三猿斎は茶号。土倉一静の三男で伊木家の養子となる。1854年(安政1)、房総半島南端鏡ヶ浦に配備され沿岸防衛にあたったが、陣中、半裸体の美人画を茶掛けにし、猪鍋(ししなべ)を出して西洋流の茶事を行った話は有名。幕府による長州征伐の不可を藩主に説いて調停を勧め、坂本龍馬(りょうま)、中岡慎太郎ら志士をかくまう。1871年(明治4)岡山藩大参事に任ぜられ、ついで辞す。1878年、士族授産のため児島(こじま)湾の干拓が始まった際、これに参画して伊木社をおこしたが失敗し、かえって財を失った。
茶の湯を速水宗筧(はやみそうけん)に学び、のち玄々斎千宗室(げんげんさいせんのそうしつ)に傾倒した。邸内には利休堂のほか、各種茶席を設けていた。また天保(てんぽう)年間(1830~1844)采地(さいち)の邑久(おく)郡(岡山県瀬戸内市邑久町)に御庭窯(おにわがま)を開き、虫明(むしあけ)窯の名がある。明治19年3月没。遺言により利休木像を大徳寺に寄進、現在金毛閣上層に置かれている。墓は岡山市中区少林寺にある。
[村井康彦]