秩禄処分によって家禄収入を失った士族を産業につかせ,生活救済を図った明治政府の政策をいう。
1869年(明治2)6月,維新政府は領主・公卿らを華族,諸藩の藩士・旧幕臣など従来の武士団を総称して士族,農工商身分の者を平民と称することとしたが,このころ約194万人(42万5000戸)を数えた士族の生活は一般に窮乏が進み,とくに旧幕臣や賊軍となった藩士のなかには,士族をやめ,農商などの職業につく者も少なくなかった。また財政が破綻にひんした一部の藩は,手当米支給,耕地給与などの手段で,〈帰農商〉を積極的に進めた(林田,苗木,膳所(ぜぜ),長岡藩など)。当時はまだ武を常職とする士族が農商工の職業につくことは建前として禁ぜられていたから,この〈帰農商〉は士族身分を離れることが原則であった。71年7月廃藩置県が断行され,その直後の12月,華士族は官職者のほか,自由に農工商の職業につくことが許され,翌年5月には藩が独自に行っていた〈帰農商〉の措置も禁止された。そして以後は,明治政府によって統一的に,士族を在籍のまま農工商の職につかせるための措置がとられた。73年12月〈家禄奉還ノ者ヘ資金被下方(くだされかた)規則〉〈産業資本ノ為メ官林荒蕪地(こうぶち)払下規則〉の公布がそれである。ここで政府は,家禄奉還を願い出た士族に対し就産資金・公債(秩禄公債)を下付する制度を設け,さらにその士族が農牧業のため官有の田畑(おもに社寺境外地を上地したもの),荒蕪地・山林の払下げを希望するときは,その土地相当代価の半額で払い下げることとした。75年7月この制度が廃止されるまでの間,家禄奉還者は13万5000余人に達した。しかしこの帰商者・帰農者の多くは失敗し,〈士族の商法〉という諺が生まれた。なおこの前後の時期には,以上の制度によらない,窮迫士族への荒蕪地無償払下げによる士族開墾入植事業が地方庁によって実施された。1872年鶴岡県(現,山形県)の旧庄内藩士族による松ヶ岡開墾,73年福島県の同県士族による安積(あさか)郡桑野村開墾,76年静岡県の旧幕臣による三方原開墾等はその著名な例である。
以上の廃藩置県後の政府の措置も広義の士族授産といえるが,厳密な意味での士族授産は,1876年の秩禄処分と,それに対する西南戦争などの士族反乱鎮圧後に政府の重要政策の一つとして実施された事業をさしている。この士族授産政策は,78年3月大久保利通の〈一般殖産及士族授産ノ儀ニ付伺〉によって提起された。その特徴は,士族授産をたんなる困窮士族の救済や,士族の不平・反抗の温床を断つためだけではなく,当時の知識層であった士族の力をもって農工業を改良発展させようとする殖産興業上の重要施策として位置づけた点にある。この建議に基づいて同年起業公債が起債され,募集金額1000万円のうち士族授産に約300万円があてられた。これによって政府は,福島県安積原の士族入植による国営開墾事業や,士族授産の勧業資金貸下げによる開墾,製糸,紡織,製陶,マッチ製造,牧畜,製茶,セメント製造などの助成を行った。このうち安積開墾は,猪苗代湖から安積の原野に水路を開き,旧久留米藩士族など十数藩士族487戸を入植させ,1300町余を貸し下げ,うち396町を開墾したものであった(1884現在)。また勧業資金貸下げは約200万円,対象となった士族は推定7万6000戸に達した。この起業公債による勧業資金のほとんどは81年までに支出されたが,これを補足するものとして,さらに81-89年に国庫から約20万円の勧業委託金と291万円の勧業資本金が支出された。この時期,政府の紙幣整理による不況が深まり,士族の困窮ははなはだしく,そのため,殖産興業の目的は後退し,おもに士族の内職的な雑工業や蚕糸業,開墾の助成に向けられ,もっぱら没落士族救済に用いられた。したがって1件当りの貸与金額も少なく,対象は約8万6000戸に達した。以上のほか,士族授産としては,府県がその勧業費のうちから支出・実施した補助的な事業や,旧藩主が政府の方針に沿い,旧家臣に資金を恵与して実施した事業,さらには木戸孝允,井上馨が山口士族のため約40万円を寄付し就産所を設けた例などがあげられる。また,北海道開拓事業の一環としても,種々の士族授産の施策がなされた。
以上の士族授産の対象となったのは士族総数の約26%にあたる10万8000戸で,1戸当りの授産金は約22円と推計されている。これら授産事業のうち成功した例もまれではないが,全体としては不成績に終わり,貸し付けた授産資金の回収もきわめて悪く,87年の会計検査院報告は,士族授産を前途成業の見込みなく資金を消費したものとし,政府は多額の資金を支出し,かえって多くの士族のうらみを買ったと断じている。
執筆者:丹羽 邦男
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明治政府の士族政策。戊辰(ぼしん)戦争、版籍奉還以降、士族の家禄(かろく)(秩禄ともいう)は大きな変動を受けた。これは1876年(明治9)の金禄公債証書発行条例によって最終的に廃止されるが、これにより多くの士族は生活の基礎を失った。一方、士族は廃藩置県と徴兵令の施行によって常職を失ったから、士族をなんらかの産業につかせ、その生活を維持させることが、社会不安を防ぐためにも必要であった。この政策を士族授産という。まず1871年に政府は華・士・卒に農・工・商の各業に従事することを許し、73年以降、家禄奉還者には就産資金を与え、土地の廉価払下げや北海道屯田兵への士族募集などの処置を講じたが、78年以後より大規模な授産政策を行うようになった。79年に計画された福島県安積(あさか)原野の国営開墾事業や、士族に交付した公債証書による国立銀行設置の奨励などはそれであるが、80年前後の反政府運動の激化への対策として、士族に対する勧業資本金の交付を拡大し、82年以降300余万円を支出し、その一部は北海道移住士族の保護にもあてられた。これらの授産政策の効果は、移住や蚕糸業に関するものを除けばみるべきものは少なかったが、間接的には近代産業の発達を助ける結果をもたらしている。80年代のうちに、士族問題は社会問題、政治問題としての重要性を失い、89年をもって授産政策もまた打ち切られた。
[永井秀夫]
『吉川秀造著『全訂改版 士族授産の研究』(1942・有斐閣)』▽『我妻東策著『明治社会政策史』(1940・三笠書房)』▽『我妻東策著『士族授産史』(1942・三笠書房)』
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明治前期の士族救済政策。秩禄処分で士族に交付された金禄公債は少額であったうえにインフレのなかで目減りし,士族の困窮は士族反乱・自由民権運動対策としても放置できなくなった。大久保利通内務卿の「一般殖産及華士族授産ノ儀ニ付伺」を契機に,政府は1879年(明治12)以降,起業基金・勧業資本金・勧業委託金の相当部分を士族の産業従事に投じた。その交付総額は18万余戸に対して456万余円にのぼった。しかし成果のあがったのは,蚕糸業・雑工業・開墾の一部にとどまり,「士族の商法」といわれたように大部分の事業は失敗に終わり,貸与金のほとんどは90年に棄捐(きえん)された。
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…授産事業は,身体・精神上の理由や世帯の事情により就業能力に制約のある要保護者に対して,就労や技能修得に必要な便宜を与えて,その経済的自立と安定を援助する社会福祉事業である。明治期にすでに士族授産があり,大正期の授産事業は経済保護事業の重要な分野の一つであったが,第2次大戦後の授産事業は,とくに稼働能力をもちながら就労が困難な障害者に対する施策として,低所得者対策のなかの重要な位置を占めている。社会福祉事業に名を借りて税金のがれや中間搾取を行う不良な授産事業を防止するため,社会福祉事業法により,援産施設を経営する事業は,第一種社会福祉事業として,国・地方公共団体または社会福祉法人によらなければならないこととされている。…
※「士族授産」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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