伊藤欽亮(読み)イトウ キンリョウ

20世紀日本人名事典 「伊藤欽亮」の解説

伊藤 欽亮
イトウ キンリョウ

明治・大正期のジャーナリスト,実業家 日本銀行発行局長。



生年
安政4年8月4日(1857年)

没年
昭和3(1928)年4月28日

出生地
長門国(山口県)

学歴〔年〕
慶応義塾〔明治13年〕卒

経歴
長州藩士の家に生まれ、藩校明倫館や攻玉社を経て、慶応義塾に学ぶ。明治13年に卒業したあと新聞記者となり、「鎮西日報」や「静岡新聞」などで活動。15年に「時事新報創刊と同時に記者となり、のちにはその編集を担当した。29年には日本銀行に移って発行局長や文書局長を歴任し、39年陸羯南の主宰する新聞「日本」を買収して社長に就任、政友会寄りの論陣を張った。大正3年に社屋の火災のため「日本」が廃刊したのちは、慶応義塾系の交詢社理事や千代田生命理事など実業界で活躍。一方、言論界でも雑誌ダイヤモンド」を監修し、同誌などに多くの論説を執筆するなど健筆を揮った。著書に「伊藤欽亮論集」(石山賢吉編)がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊藤欽亮」の解説

伊藤欽亮 いとう-きんりょう

1857-1928 明治-大正時代の新聞人。
安政4年8月4日生まれ。明治15年「時事新報」の創刊とともに記者となり,のち編集を主宰。29年日本銀行にうつり,発行局長,文書局長をつとめる。39年「日本」を買収し社長。雑誌「ダイヤモンド」を監修した。昭和3年4月28日死去。72歳。長門(ながと)(山口県)出身。慶応義塾卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の伊藤欽亮の言及

【日本】より

…発行部数は日清戦争のころの最盛期でも約2万部と推定される。日露戦争後,経営はいっそう悪化し,1906年に陸羯南から伊藤欽亮に譲渡された。伊藤欽亮が紙面通俗化を図ったのに対し,三宅雪嶺,長谷川如是閑らは抗議して退社,雑誌《日本人》に移った。…

※「伊藤欽亮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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