慶応義塾(読み)けいおうぎじゅく

世界大百科事典内の慶応義塾の言及

【小幡篤次郎】より

…77年欧米漫遊,のち交詢社の結成,明治生命保険会社創立に尽くし,また立憲改進党結成に参画した。東京学士院会員,貴族院勅選議員,貨幣制度調査委員となり,日本郵船,鐘淵紡績の役員などを兼ねるが,福沢に寄り添い慶応義塾の経営に精魂を傾け,90年塾長となった。出版の自由を論じたトックビルの《上木自由論》や《英氏経済論》などの訳著がある。…

【福沢諭吉】より

…しかし幕府にすでにその実力がないことを知り,他方,尊攘倒幕派を盲目的な排外運動としかみることができなかった彼は,日本の将来を悲観し,68年6月幕府に御暇願を出した。4月には慶応義塾(のちの慶応義塾大学)と正式に名のった私塾によって文明の火種を伝えることに踏み切り,明治新政府への出仕の召しにも応じなかった。71‐72年(明治4‐5)ころ新政府が意外にも盲目的攘夷とは逆の政策をとっていることを知り,《学問のすゝめ》17編(1872‐76)のシリーズを刊行して,天賦の個人の独立・自由・平等を基礎に下から国民国家を形成し,そのような国民国家が〈天理人道〉と〈万国公法〉の下に独立と平等の関係で交わる国際社会を構想した。…

【留学】より

…留学先は84%余が欧米(うち53%が北米,23%がヨーロッパ,8%がオセアニア)であり,アジア地域はわずかに10%程度となっており(1996),明治以来の〈脱亜入欧〉的な対外態度のパターンがいぜんここにも根強くあらわれている。
【来日留学生の受入れ】
 外国からの留学生の受入れは,1883年に朝鮮留学生40余名の慶応義塾への入学のころから始まり,日清戦争直後の96年,中国からの留学生10余名の来日以降,中国人留学生が増加し,日露戦争後の1906年ころには1万人にものぼった(後出の[中国][朝鮮]で詳述。なお,ベトナムからの留学については〈ドンズー運動〉の項目参照)。…

※「慶応義塾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

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