朝日日本歴史人物事典 「伊達宗勝」の解説
伊達宗勝
生年:元和7(1621)
江戸時代初期の仙台藩祖政宗の10男。生母は多田吉広娘(法性院)。幼名千勝丸,のち兵部。正保2(1645)年従五位下兵部少輔。万治1(1658)年将軍徳川家綱より江戸屋敷を賜り,藩主綱宗より7000石加増,1万5810石を知行。3年藩主となった亀千代(綱村)幼少により田村宗良と共に後見役,内分大名となり,かねてより知行地があり,社寺堂宇の開基などにもなっている一関で3万石を領す。寛文11(1671)年4月,いわゆる「伊達騒動」で罪を得て土佐(高知県)山内家に預けられ,高知城下西北郊小高坂に謫居。『仙台近古史談』は,「性奸巧常に大国に生れ英嗣たること克はざるを憾む」と評している。一方では,兵部自身には特に「悪心」はなく側近が兵部の権力を背景に政治を壟断したとの見方もある。このほか,長男東市正宗興は豊前小倉小笠原家,次男虎之助および娘2人は一門岩出山伊達氏,宗興の妻子は一門石川氏次いで伊予吉田伊達家にお預けとなった。
(齋藤鋭雄)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報