天和の治(読み)てんなのち

改訂新版 世界大百科事典 「天和の治」の意味・わかりやすい解説

天和の治 (てんなのち)

江戸幕府5代将軍徳川綱吉(在職1680-1709)の初期の施政の通称。天和(1681-84)に続く年号貞享(じようきよう)(1684-88)をも冠して〈天和貞享の改革〉とも称する。17世紀後半に入って幕藩制社会が変質しはじめると,領主階級全般に財政の不健全化,支配機構の弛緩が表面化し,農民の抵抗も質量ともに高揚の傾向を示した。幕府もこの事態に対応するため,全領主的支配を強化しようと努力したが,4代将軍家綱が病弱で政務の主導力に欠け,固定化した格式制度が政治刷新の障害をなした。当時幕政に専権をふるったのは譜代最高の門閥権威を背景とした大老酒井忠清で,役宅が江戸城大手門下馬札前にあったところから〈下馬将軍〉の異名を受けたほどであったという。

 1680年(延宝8)5月将軍家綱が死去し,将軍となった弟の綱吉は直ちに忠清を罷免した。終身の職とみなされていた大老を免職した理由について,当時から種々の風説が流布しているが,信憑性はない。綱吉は門閥の権威を排除して将軍が幕政の主導権をにぎり,政治の改革を意図したものと理解しうる。忠清の免職を手始めに綱吉が実行した施策の一つは,腹心をもって権力の中枢を形成することであった。彼は前代老中で彼の将軍就任を支持した堀田正俊を大老に取り立てるとともに寵臣側近に集め,側用人の職を創置して側近の地位を老中同格にまで高め,将軍の意志を忠実に末端まで貫徹させうる機構を形成しようとした。これと並行して,前代に未解決であった越後高田藩の御家騒動(越後騒動)を親裁し,親藩筆頭の越後松平家を取りつぶしたのに引き続き,幕臣に対し仮借なく賞罰厳明の方策を励行した。そのため改易・減封処分を受けた大名は46家,旗本は100家余に達し,免職等の処罰もおびただしい数にのぼる。その発想は綱吉が幼少から愛好した儒学の理念に基づくのであろうが,とくにその対象が譜代層に向いており,幕政上伝統的に勢力を張ってきた譜代層を畏伏せしめ,将軍の権威を絶大にしようとする政治的意図がここに認められる。

 施策の特色の第3は直轄領行政の刷新である。綱吉は老中執務の慣例を改め,1680年8月堀田正俊に財政専管を命じ,その下に直轄領統治の協議組織を設け,82年(天和2)には勘定吟味役を創置して勘定方役人の中から実務熟達者を抜擢(ぱつてき)し,勘定奉行を補佐させるとともにその監視に当たらせた。その成果としてとくに顕著なのは,大量の代官が勤務不良の理由で処分されたことであり,その結果中世以来の系譜をもつ土豪的年貢請負人的代官が多数ここで没落し,徴租官僚的代官と交替した。

 これらの施策は幕政史上一期を画すると評価しうるものであり,〈享保改革〉の前駆的意義も認められる。しかし綱吉の気まぐれで偏執狂的性格も一因となって,幕臣は将軍の強大な権威の前に萎縮し,迎合の気風を強め,側近の寵臣の権勢を増大させる弊害を生じ,その後の経済政策の失敗も加わって,幕政刷新の方向は大いにゆがめられた。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の天和の治の言及

【徳川綱吉】より

…また堀田正俊に財政専管を命じ,勘定吟味役を創置して直轄領行政の刷新に努め,勤務不良の代官を大量に処分した。このような綱吉の初期の施政は幕政史上〈天和(てんな)の治〉などと称せられる。しかし綱吉の権威が強大になるにつれ,幕臣全般の気風は萎縮し,彼の政治的意図を実らせるべき新しい行政機構は成長せず,ことに84年(貞享1)堀田正俊が殺されて後は,牧野成貞柳沢吉保ら側近の寵臣の権勢のみ増大する傾向を生じた。…

※「天和の治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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