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原田甲斐 はらだかい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

原田甲斐
はらだかい

[生]元和5(1619).陸奥
[没]寛文11(1671).3.27. 江戸
江戸時代初期の仙台伊達藩の重臣。船岡館主。宗資の子。幼名,弁之助,長じて雅楽 (うた) 宗輔,のち甲斐宗輔と改めた。元和9 (1623) 年家督を相続し,慶安1 (48) 年評定役,寛文3 (63) 年奉行 (家老職) となった。同 11年伊達一門宗重と同式部との所領争いが起り,幕府評定所で評議した際,宗重以下を殺害,みずからも殺された。いわゆる寛文事件の中心人物で,後世伊達騒動の悪人とされ,演劇,物語などで著名となった。

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デジタル大辞泉の解説

はらだ‐かい〔‐かひ〕【原田甲斐】

[1619~1671]江戸前期の仙台藩士。名は宗輔(むねすけ)。伊達安芸宗重との争いから、大老酒井忠清邸で宗重を斬(き)り、みずからも斬られた。伊達騒動の中心人物として、歌舞伎・浄瑠璃に登場する。

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百科事典マイペディアの解説

原田甲斐【はらだかい】

陸奥(むつ)仙台藩の奉行(家老)。名は宗輔(むねすけ)。伊達(だて)騒動寛文事件)の中心的人物として著名。幼君亀千代の後見として藩政の実権を握った伊達宗勝と結び,伊達安芸(あき)宗重らと対立,宗勝らの非違を幕府に訴えた安芸を大老酒井忠清邸で斬殺,甲斐自身もその場で殺された。
→関連項目柴田[町]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

原田甲斐 はらだ-かい

1619-1671 江戸時代前期の武士。
元和(げんな)5年生まれ。陸奥(むつ)仙台藩奉行(家老)。幼君伊達(だて)亀千代(のち綱村)の後見人伊達宗勝とむすび藩政を推進する。その専横を幕府にうったえた保守派の伊達宗重を,寛文11年3月27日大老酒井忠清邸における審理の直後に斬殺し,自身も殺された(伊達騒動)。53歳。名は宗輔。

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朝日日本歴史人物事典の解説

原田甲斐

没年:寛文11.3.27(1671.5.6)
生年:元和5(1619)
仙台藩の寛文期(1661~73)の奉行職(家老)。諱宗輔。原田氏は藩主伊達家家格宿老の家柄。父宗資のとき柴田郡舟岡(柴田町)に知行地替となった。母は家格一族茂庭綱元の娘(慶月院)。宗輔は,幼名弁之助のち雅楽を称した。5歳で家を継ぎ,慶安1(1648)年評定役,寛文3年奉行職に就任した。この時期は幼君亀千代(綱村)の時代で伊達兵部少輔宗勝,田村右京大夫宗良が後見政治を行っていた。甲斐の奉行職就任後,河野道円父子らの処罰事件,国目付供応のときの甲斐嫡子帯刀のからんだ城中席次争いと伊東氏の処罰をはじめ,家臣に対する処罰が相次いだ。これらはすべて宗勝を背景に甲斐が中心になって行ったとされている。しかし,一方では新田開発を積極的に推進するなどの財政政策を実施した。寛文10年,一門の涌谷伊達氏と一門の登米伊達氏の知行地境争いの裁定をめぐって,涌谷邑主伊達宗重は,かねてからの兵部の政治に対する反発もあって,これを直接幕府に訴えた。翌寛文11年3月27日の大老酒井忠清邸での審問後,甲斐は宗重を斬殺,甲斐も討たれた。甲斐の4人の男子および嫡子帯刀宗誠(妻は茂庭定元の娘辰)の男子2人は切腹,母妻娘はお預けとなり原田氏は断絶した(寛文事件,いわゆる伊達騒動)。原田氏の知行高は,8000石,5000石などさまざま伝えられているが,『柴田町史』所載の「知行書上」によると4183石である。甲斐の人物評は,時代によって逆臣,忠臣二様に分かれ,政治指導力についても,兵部の片腕として辣腕を振るったとする見方と,政治的識見,能力ともになく単に兵部の意のままに動いただけであるとする両極端の論がある。また,寛文事件の性格については,近年藩権力の集中強化をはかる兵部・甲斐側とこれに反対する考えとの対立とみる見解が定着しつつある。<参考文献>林亮勝『原田甲斐』,大槻文彦『伊達騒動実録』,小林清治『伊達騒動と原田甲斐』,平重道『伊達騒動』

(齋藤鋭雄)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

はらだかい【原田甲斐】

1619‐71(元和5‐寛文11)
仙台藩奉行(家老)。伊達騒動(寛文事件)で有名。名は宗輔。知行地4183石で宿老の家柄に生まれ,1648年(慶安1)評定役,63年(寛文3)奉行に進む。幼君亀千代の後見として専権を振るう一門伊達兵部少輔宗勝と結び,伊達安芸宗重らの門閥・家臣団,他の奉行と対立した。政争は拡大し幕府への出訴となり,敗訴が決定的となった3月27日大老酒井忠清邸で安芸を斬り,みずからも斬られた。【難波 信雄】
[作品化]
 伊達騒動は実録本や講釈に文芸化され,なかでも実録本《伊達厳秘録》(宝暦(1751‐64)ごろ成立か)が著名。

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大辞林 第三版の解説

はらだかい【原田甲斐】

1619~1671) 江戸前期の仙台藩伊達氏の家老。伊達騒動の中心人物。幕府による伊達家政争の審問が始められ、敗北をさとった甲斐は大老酒井邸で政敵伊達宗重を斬り、自らも斬殺された。 → 伊達騒動

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

原田甲斐
はらだかい
(1619―1671)

仙台藩初期の奉行(ぶぎょう)。伊達(だて)騒動(寛文(かんぶん)事件)で著名。名は宗輔(むねすけ)。家老の家柄(知行地(ちぎょうち)4383石)に生まれる。1648年(慶安1)評定役(ひょうじょうやく)、63年(寛文3)奉行となる。甲斐は、幼君亀千代(かめちよ)(4代綱村)の後見として専権を振るう一門伊達兵部宗勝(ひょうぶむねかつ)と結び、門閥・家臣を代表する他の奉行伊達安芸宗重(あきむねしげ)らと対立した。政争は所領の境争いも絡み、幕府への出訴に発展したが、71年(寛文11)3月27日、甲斐は大老酒井忠精(ただきよ)邸で安芸を斬(き)り、自らも討たれ、原田家は断絶した。[横山昭男]

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世界大百科事典内の原田甲斐の言及

【伊達騒動】より

…叔父伊達兵部少輔宗勝,庶兄田村右京宗良がそれぞれ3万石を分知され後見となり,幕府国目付の毎年派遣の下に藩政が行われた。奉行奥山大学常辰が当初権勢をふるったが,兵部(宗勝)は63年(寛文3)これを罷免,幕府老中酒井忠清と姻戚関係を結び,奉行原田甲斐や側近出頭人を重用して一門以下の反対勢力を弾圧,斬罪切腹17名を含む120名余を処分した。66年には亀千代毒殺未遂のうわさがたち医師河野道円父子が殺害され,68年にも同様の事件があって兵部らの陰謀とする非難が高まった。…

※「原田甲斐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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