日本大百科全書(ニッポニカ) 「会津御蔵入騒動」の意味・わかりやすい解説
会津御蔵入騒動
あいづおくらいりそうどう
江戸時代中期、陸奥(むつ)国会津地方の南山(みなみやま)御蔵入領(幕領)5万石余で起こった百姓一揆(いっき)。五万石騒動、南山一揆ともいう。1720年(享保5)10月、会津御蔵入領(福島県南会津郡、大沼郡)の農民700~800人が、田島代官所(南会津町。代官山田八郎兵衛)に押し寄せた。年貢減免に関係する箇条と郷頭(ごうがしら)(数か村支配の村役人)の廃止を目的とするもので、竹槍(たけやり)、鍬(くわ)、鋤(すき)、棍棒(こんぼう)を持って代官所に迫った。代官所では、18組(1組約15か村以上30余か村)の郷頭と名主236人をよび談合し願書を出させたが、首謀者が投獄されたことから、江戸訴訟となり、農民たちは代表35人の総代のうち小栗山喜四郎(おぐりやまきしろう)ほか18人を選び、翌1721年2月訴状13か条を幕府勘定所に提出した。このうち6か条は幕府により削除されたが、農民たちはふたたび13か条を願い出、さらに50か条の訴状となった。しかし郷頭側は不正なしとしてこれに反駁(はんばく)し、結局農民側の敗訴に終わった。江戸滞在費用は農民が出し合ったが、江戸の者は皆投獄された。のち在国の者380余人が牢舎(ろうしゃ)、界(さかい)村名主兵左衛門ら5人が江戸で死刑となり、田島で捕らえられていた喜四郎も1722年7月2日、同地で獄門に処せられた。
[庄司吉之助]