倉科村(読み)くらしなむら

日本歴史地名大系 「倉科村」の解説

倉科村
くらしなむら

[現在地名]牧丘町倉科

城古寺じようこじ村の西、つつみ川左岸に位置し、南は同川を挟んではやぶさ村、西は西保下にしぶしも村。枝郷に中谷なかや中尾なかお久保くぼ新居あらいうえ・多尾(田屋)屋敷やしき請地うけじ西山にしやま新地しんち大垈おんたがある(甲斐国志)。天正一〇年(一五八二)と推定される六月二三日の徳川家奉行連署証文写(国立史料館蔵依田家文書「感状写」)に「蔵科」とみえる。倉科の地を領して倉科氏を称したのは一五世紀初期の甲斐守護武田信満の子治部少輔信広と伝え、当地には倉科氏の屋敷跡と伝える琵琶びわ城跡があり、天正壬午の乱の際には倉科左衛門尉信棟が小田原北条氏に味方して敗死したという(「甲斐国志」など)。武田氏滅亡後、徳川氏によって天正一〇年八月二四日大村次左衛門が当地のうち五貫文などを(「徳川家印判状写」木曾考)、同年一二月三日以清斎(市川元松)に当地内二一貫六八〇文などが(「徳川家印判状写」記録御用所本古文書)、同年一二月五日には某人に倉科郷五貫文・棟別二間が(「徳川家印判状写」木曾考)、翌一一年九月二一日には山下又助(勝忠)に倉科坂上内一〇貫文などが安堵されている(「徳川家印判状写」記録御用所本古文書)

倉科村
くらしなむら

[現在地名]更埴市倉科

東は高遠たかとお山系を越えて西条にしじよう村(現長野市松代まつしろ西条)に、東南の鏡台山を経て小県ちいさがた傍陽そえひ村(現小県郡真田さなだ町傍陽)、西はもり村、北は生萱いきがや村とに囲まれた村。村名の初見は「和名抄」郷名で「倉科」とある。「吾妻鏡」の文治二年(一一八六)三月の条に、年貢未済の庄として「九条城興寺領倉科庄」とみえる。建武元年(一三三四)六月の雑訴決断所牒によれば、倉科庄は城興寺領であるにもかかわらず屋代下条一分の地頭彦四郎はこの庄の年貢を押領していると当寺の雑掌は信濃守護所へ訴えている(市河文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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